ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2005年12月30日金曜日

真理の探究(4)「さとり」の実体

「さとり」とは、われわれが頭の中で考えた思想の世界に生きている訳ではなく、また感覚器官を通じて受け入れた感覚的な刺激の世界に生きている訳でもなく、この現実の世界が心と物とに分裂していない以前の現実の世界に生きていると云う現在の瞬間における単純な事実を確認することである。今から2千数百年前に釈尊はその事実を發見され、その教えを信じて殆ど無数と云つてもよい人々が、その教えを実行し、それぞれの幸せを得た事は歴史的な事実であるが、そのような事実が何故起こるのかという事については、20世紀前後に達するまでは、人類はその理由を知る事が出来なかつた。
しかし幸いにして19世紀、20世紀、21世紀にかけての近代心理学、生理学の進歩を背景として、科学的な分野からも,何故、坐禅の修行が人間の幸福に関係して来るかと云う解明が行われるようになつたという事は、人類にとつても非常に幸福なことである。人類は19世紀から21世紀にかけて心理学,生理学が長足の進歩を遂げ、人間の体内に、心と体との接点として、自律神経の存在を発見した。しかもその自律神経が、交感神経と副交感神経との二つに分かれ、交感神経が強い場合には思考の働きが強く,副交感神経の強い場合には感覚の働きが強いこともはつきりして来た。そして交感神経と副交感神経とが均衡した強さになつている時には,正しい判断に必要な直観的な判断が豊かになるということも、はつきりして来た。したがつて人類は絶えず自律神経を均衡させて、常に正しい判断を維持する必要があるのであるが、その要望に答える事のできる修行法が坐禅である。
釈尊の教えは,2千数百年前に釈尊が坐禅の修行をされた所から生まれて来た教えであるが、この坐禅という修行法が何故人間の幸福に繋がるのかという理論付けは、現代社会になつて始めて可能となつた。その理論がはつきりして来たということは、何故人類が坐禅の修行を必要とするかということが、ようやく解つて来たという事を意味するのであり、それは古代インドにおける宗教的な修行法の理論付けが、20世紀前後の科学理論によつて可能となつたという事である。つまり古代インドに於ける宗教的な知恵と,少なくとも数千年を経過した欧米文化とが、21世紀の今日、出会いつつあるという事であつて、その歴史的な意義は、決して軽く見る事が出来ない。
しかも自律神経の均衡している事を基準とする文化は、交感神経が強い時に現れて来る思考の文化と、副交感神経が強い時に現れて来る感覚の文化とを主流とする欧米文化とは根本的に違う性質を持つた古代インド文化であるから,そのように全く違う二種類の文化が、21世紀における歴史的な事実として合流して行くという事は、非常に意味の高い出来事であると思う。

2005年12月28日水曜日

真理の探究(3)「さとり」とは何か

苦行が真実を知るためには、何の役にも立たないばかりでなく、むしろ真実を知る為には邪魔になる事を知つた釈尊は,思い切つて苦行の森を後にした。釈尊と一緒に苦行を続けて来た修行者達は、釈尊が苦行の厳しさに耐える事が出来なくて,苦行から脱落したものと思い込み、釈尊を軽蔑して非難した。しかし釈尊はそのような誤解を少しも気にすることなく、苦行の森を後にした。恐らく釈尊の心の中には,真実を求めるという事以外には、何も存在しななかつたのであろう。釈尊はそのような修行僧達の非難を少しも気にする事無く,決然として苦行の森を後にした。釈尊がナイランジャラーと呼ばれる川の畔を歩いていると、近隣の村の娘スジヤーターが、釈尊のあまりにも衰弱した姿を見て、自分の持つて居た乾粥を釈尊に差し上げた。
釈尊はその乾粥を食べて多少人心地の付いた所で、次の修行に出發した。インドにおいては古代インドの時代から,ヨガと呼ばれる修行法があり、釈尊はそのヨガと呼ばれる修行法の中、最も優れているとされている現在の坐禅の姿勢と同じ姿勢を採用されて、熱心に修行された。その修行が数年続き、ある冬の朝、釈尊が坐禅をしておられた時に、ふと自分が、頭の中で生まれた考えの中に生きている訳でもなく、また感覚的な刺激の中に生きている訳でもなく,実に現実の世界の中に生きている事に気が付いた。経典の中の記載としても、「山川草木.悉皆成仏」という表現があり、正法眼蔵の中にも、「山河大地、同時成道」という表現がある。前者は「山も川も草も木も、一切が悉く真実になつた」という意味であり、後者は「山も河も大地も、一斉に真実となつた」という意味であつて、およそ一切のものが真実であり、現実である事に気が付いたということを意味している。この事は抽象的に頭の中で考えられた思想が、真実という訳ではなく,感覚的に捉えた映像が真実と云う訳もなく、逆にわれわれの周囲を取り巻いている現実の世界そのものが、真実であるという主張である。それは長年に亘つて築き上げて来た観念論と唯物論とが、何れも頭の中で考えられた幻想であり、真実と呼ばれるものは、現にわれわれがその中に住んでいる現実世界そのものであるという思想が、正しい事に気が付いたということを意味する。つまり「さとる」とはこの意味であり、今まで正しいと考えられて来た観念論と唯物論とが、実は幻想の世界であり、真実とは正にこのわれわれの眼の前に展開している現実の世界そのものであるということをの確信した事である。

2005年12月26日月曜日

真理の探究(2)苦行

ウツダカ・ラーマプトラから、非想非非想処と呼ばれる思想と感覚的な刺激とを共に排除した、現実的な境地を教えられ、アーラーラ・カーラーマからも、やはり無所有処という所有に拘らない境地を教えられたけれども、それらが何れも思想的な面のみが色濃く、実践的な面の少ないことに失望した釈尊は、寧ろ思想的な面を離れて、肉体的な面に活路を見出す方向に転換した。即ち古い時代からインドにおいて行われていた、自分自身の肉体を極端に苦しめる事に依り,人生問題にある種の解決を図ろうとする方法を選んだ。釈尊は苦行の面でも非常に厳しい態度で望まれたと見えて、食事を切り詰める面でも睡眠時間を少なくする面でも、徹底した態度で望まれた処から、修行中に二三度仮死状態に陥り、「ゴータマが死んだ」という噂が流れたと云われている。しかし釈尊は自分が苦行を続ければ続けるほど、体力が衰え心が不安定になることを発見した。そしてこの事実は釈尊が苦行に如何に努力して見ても、変わる事が無かつた。この体験も釈尊にとつて非常に貴重であつたと云える。もしも釈尊が実銭的な方でなかつたならば、仮令釈尊が他の人から苦行の実行を勧められたとしても、苦行を実際に実行されないことも、あり得たかも知れない。その場合,釈尊の苦行に対する態度がはつきりせず,仏教の苦行に対する態度をはつきりすることが、出来なかつたかも知れない。

2005年12月24日土曜日

真理の探求(1)二人の思想家

釈尊は真理の追求を始めるに当つて、先ず最初に選んだ思想家は、ヴァイシャーリー市の近くに300人の弟子と一緒に住んでいたアーラーラ・カーラーマという思想家であつた。彼は伝統的なバラモンの教えを信ずる思想家ではなく、独自の新しい思想を説いていた思想家と考えられ、その主張は無所有処と呼ばれている。それは所有を持たないという考え方であるから、われわれ人間が普通に持つて居る所有という考え方を否定し、われわれが本来、無所有であるということを強調した考え方であつたと思われる。しかし釈尊はアーラーラ・カーラーマの思想が、単なる思想であつて実践の立場に踏み込んでいないことに気が付き、その教えを離れたものと解される。そこで釈尊は他の思想家であるウツダカ・ラーマプツタを訪れた。しかしその土地はアーラーラ・カーラーマの住んでいた場所とあまり離れていなかつたと云われているけれども、現在の何処に当るかは,諸説があつて未だに確定していない。ウツダカ・ラーマプツタの名前は、ラーマの子・ウツダカの意味であり,彼は700人の弟子と一緒に住んでいたと云われている。彼の主張は非想非非想処という言葉で表現されているから、思想でもないし、思想の反対の感覚的な刺激でもないという意味であつて、現実を目標としていると解される。しかし釈尊は、問題が単に思想の段階だけに留まり,現実の行為の段階に踏み込んでいない処から、ウツダカ・ラーマプツタの思想にも満足することが出来ず、やがて別の世界に解決を求める結果になつたと思われる。
(注)「釈尊の人柄」および「真理の探究」に関連しては、主として春秋社刊行の中村元選集(11)ゴータマ・ブツダ及び岩波書店刊の岩波仏教辞典に依つた。

2005年12月22日木曜日

釈尊の人柄(4)出家

長い間悩んだ末、釈尊は遂に出家を決意した。出家とは家庭生活に留まることを諦めて、仏道修行に専心することを意味する。釈尊も自分が何年となく続けて来た家庭生活を離れて、真理の探求に進む事が、果たして倫理道徳の面で許されるのか、否かに付いて悩んだ事であろう。しかし釈尊は長年の夢であつた出家をして真実を求め、全人類の救済に役立つ真実の探求を達成するという願いを放棄する事が出来なかつた。そこで釈尊は29歳の時、ある夜従者のチャンナにカンタカという白い馬を出させ、こつそりと王城を抜け出した。従者のチャンナは途中まで付いて行つたが、アヌーピヤという林まで来た時に別れ、衣類を持つて王宮に帰らせ、釈尊は修行の旅に進んだ。

2005年12月20日火曜日

釈尊の人柄(3)真実の探求

釈尊は国王である父親の配慮により、外見の上では幸福そうな生活を送つているように見えたのであるが、釈尊の実生活の上では決して安らかなものではなかつた。釈尊は幼少の頃から、この世の中に果たして真実があるのか、ないのかという問題に関心が深く、もしあるものであれば,何としてでもその真実を得たいと考えていた。したがつて美しい配偶者を娶り、一男子を得た後も、出家をすべきか否かという問題が絶えず釈尊の頭を悩ましていた。釈尊は父親の計らいで、成年に近ずくまで城外に出ることが自由でなかつたが、たまたま
王城の東の門から出た処が、極めて惨めな様子をした老人に出会い、慌てて南の門から出た処が、重病に苦しんでいる病人に出会い、更に西の門から出ようとした処が、死者の葬儀に出会つたと云われている。そこで更に北の門から出ようとした処が、其処でお袈裟をかけて静かに歩いている僧侶の姿を見かけ、更に出家への希望を深められたと云われている。

2005年12月18日日曜日

釈尊の人柄(2)快適な生活

釈尊が思想問題に興味を持ち、出家を希望することを恐れた父の王は、釈尊のために極めて快適な住まいを用意し、沢山の美女を侍らせて、釈尊が出家をすることを何とかして防ごうとした。そして釈尊もそれなりの年齢に達していたから、父が与えてくれた環境を大いに楽しんだことであろう。しかし釈尊は体力的な面でも非常に優れていたと見えて、さまざまの体育や武術の大会でも常に勝利を収め,美人の評判の高かつたヤショーダラを妃として迎えることが出来たのも、彼が武術の大会で優勝したことが原因であつたとされている。更に彼は結婚後、一子ラーフラを得たのであるから、釈尊は個人としては幸福であつた筈である。しかし彼は幸せになればなるほど、真実を知りたいという希望が増大して行つて、遂に我慢の出来ない状態に追い込まれて行つた。

2005年12月16日金曜日

釈尊の人柄(1)感じ易い少年

仏教すなわち釈尊の教え紀元前5世紀から4世紀頃に、ゴータマ・ブツダ、すなわち釈尊によつて確立された。彼は古代インドにおける北方の地域、カピラヴァスツの国王であつたシュドーダナの長子として誕生した人であつたから、やがてその父の跡を継いでその国の国王となる立場の人であつた。処が国王である父が、新しく誕生した王子をある人相見に見せた処、その人相見が、「このお子は、もしも俗世間に留まるならば、全インドを支配する帝王になるであろう。しかしもしもこのお子が出家して僧侶になつた場合には、全世界を救済する大思想家になるであろう」と予言した。そこで国王である父親は、出来るならばわが子が全世界における思想的な指導者になるよりは、全インドの支配者になる事を希望し、当時として期待すことの出来る最高の生活環境を釈尊に与えて、釈尊が僧侶に成る事を防ごうとした。しかし釈尊は幼少の頃から、非常に頭が良くしかも非常に感受性の強い子供であつたと思われる。ある日彼は城内の畑で農夫が田畑を耕しているのを見ていた。その時たまたま農夫の鍬が,地中の蚯蚓を二つに切つた。ところがその時、畑の上空をたまたま飛んでいた鳥が地上に降りて来て、切れた蚯蚓を啄むとその侭再び空中に舞戻つた。処がこれを見ていた釈尊は、この世の中の全ての生物が、お互いに殺し合わなければ生存を続けることが出来ないことを知つて、非常に心を痛めたと云われている。

2005年12月14日水曜日

仏教と現実主義

以上で述べたように、人類の哲学的な傾向は19世紀の後半以来、現実主義の時代に突入したと考えられるのであるが、実は古代インドにおいて、紀元前4世紀頃に極めて徹底した現実主義の思想体系が、ある天才的な思想家によつて確立されていたと云う事実がある。そしてその天才的な思想家とは、ゴータマ・ブツダすなわち釈尊のことである。当時、古代インドにおいてはまだ文字が發達していなかつたから、釈尊の教えは説法を聞いた人々の記憶に頼つて伝承されたが、やがて文字の發達と共に経典となつて、後世に伝えられた。このような形で仏教思想は形成されたのであるが、長い年月の間には様々の解釈が生まれ、その解釈が非常に多岐に分かれたため、仏教という思想は非常に解り難い思想になつてしまつた。しかし釈尊が仏教を説き始めてから2千数百年の間に、釈尊の教えを徹底的に勉強し、釈尊の教えの究極に達したと考えられる仏教思想家が、少なくとも2人は居たと考えている。一人は2世紀から3世紀にかけて活躍したインドの佛教僧竜樹尊者であり、他の一人は13世紀に活躍した日本の仏教僧道元禅師である。私は17歳の頃から道元禅師の仏教思想に引かれ、その著作の勉強を始め、約60年程の歳月を費やして道元禅師の仏教思想を解明し、その講義をし、坐禅の指導をして来たものではあるけれども、その当時は単に日本の一仏教僧が、釈尊の教えはこの世の中が実際に存在するという現実主義の教えを主張していると云うだけのことであつて、釈尊の教えがやはり道元禅師の教えと同じように、現実主義の教えであるということに就いては、確証がなかつた。しかし約23年程まえから竜樹尊者のお書きになつた「中論」という著作を直接サンスクリツト原典を通じて読む機会に恵まれた。しかし「中論」という著作は非常に難しい著作であつたから,最初は何十回読んでみても,何百回読んでみても意味の解らない著作であつた。しかし諦める事無く解読のための努力を続けている内に、「中論」の意味を理解するようになつた。私が「中論」の読めなかつた最大の理由は、「中論」が現実主義の立場で書かれた著作であるにも拘らず、その事に気付かなかつとことにあつた。そこで仏教を正しく理解するためには、まずその最初の前提として仏教を現実主義の教え、したがつて実在論として理解することが如何に大切であるかということを痛感した。

2005年12月12日月曜日

行いの哲学(4)プラグマテイズム

一方アメリカにおいては、プラグマテイズムと呼ばれる哲学が生まれている。その中でもその代表者の一人であるデユーイは、一般に哲学が抽象的な議論に走つて、われわれの日常生活から遊離している事を批判し,出来るだけわれわれの日常生活に蜜着した形で、哲学関係の問題を取り上げることに努力した。その結果、われわれに与えられている現在の瞬間に於ける行いが,最も周囲の環境に適合していることが、哲学の基準である事を主張し、プラグマテイズムの哲学を樹立した。この哲学も現在の瞬間における行いを哲学における一つの基準として捉え、その行いが現在の瞬間における環境に最も適合しているか否かを主題とした点で、やはり一種の行いの哲学であるということが云える。

2005年12月10日土曜日

行いの哲学(3)現象学

またドイツの哲学者フツサールは観念論哲学が単に個人の意識内容だけに固執し、また唯物論が外界の物質的な側面だけに固執することに満足することが出来ず、個人的な主観と客観的な環境との接点である現象の中に、この世の中の実態を捉えようとした。そしてこのように個人的な主観にも偏らず、客観的な環境の問題だけに固執せず、主観と客観との接点である現象そのものの中に、哲学の中心を据えようとした現象学の態度も、観念論と唯物論との一面性を離れ、現象という現在の瞬間における事実そのもの中に、われわれが現に生きている現実の実態を知ろうととした点で,やはり行いの哲学の一部と考える事が出来る。

2005年12月8日木曜日

行いの哲学(2)生の哲学

ドイツの哲学者デイルタイは観念論哲学が理性的な思考のみに偏り、生命に関連した実体に欠けている事を批判し,生命に基礎を置いた生の哲学を主張し、観念論と唯物論との二極に分かれた過去の哲学を乗り越えることに努力した。彼はわれわれの日常生活の中に漲つている生命の中に含まれている躍動する実体を、直観的な方法を通じて直接把握する方法を採用したが、この流れもやはり過去の観念論や唯物論を離れて生活の実態を直接把握したいという意図が含まれており、20世紀以降盛んになりつつある現実主義的な哲学の一例と考える事が出来る。この流れの中には、ニーチエ、ベルグソン、デイルタイ、ジンメルなどが含まれる。

2005年12月6日火曜日

行いの哲学 (実存主義)

この行いの哲学という用語は、私の仏教講話を長年に亘つてお聞きになつた方以外の方々にとつては、耳慣れない言葉であると思われる。何故かと云うとこの行いの哲学という言葉は、私が数十年に亘つて仏教哲学を勉強して来た結果、仏教哲学の中に人間の行いについて、観念論や唯物論とは根本的に違う考え方があるけれども、その仏教独特の行いに関する考え方と非常に類似した考え方が、欧米の哲学の中でも、19世紀の中頃から出始めている所から、洋の東西を問わず人間の行いに関連して、従来の観念論や唯物論とは違う考え方で起こり始めている。
その先駆者は恐らくデンマークの哲学者であるキールケゴールであろう。彼は熱心なキリスト教徒であつたが、当時全盛を極めていた唯物論の勢いを眺めながら、近い将来キリスト教信仰が消滅するのではないかと云う危惧を感じ、何とかしてキリスト教信仰を存続させたいという考え方から,現在の瞬間における人間の存在を出發として、観念論にも唯物論にも属さない新しい哲学を樹立した。これが後に実存主義と呼ばれるようになつた新しい哲学の出發点である。この考え方はやがてドイツのニーチェの思想の中に現れてきた。彼はまだ観念論にも唯物論にも災いされていなかつた古代ギリシャ文明の中に見られた人間の自主的な行いを尊重し、人間の行いの中に見られる尊厳さに着目した。更にドイツのおけるヤスパースやハイデツカ−の理論的な努力が、彼らの哲学水準を高め、一派の哲学を形成するようになつたけれども、この流れもやはり、人間の現在における行いを基準にした哲学と云える。特にハイデツカ−は、[時間と存在」という著作を通じて。行いの実際に行われる現在の瞬間を問題にしているが、この一連の思想もやはり行いの哲学と見なすことが出来るであろう。

2005年12月4日日曜日

観念論と唯物論の再評価(2)

しかし12〜13世紀頃からヨーロツパの世界に、大きな変化が起き始めた。それがルネツサンスである。それまでカソリツク教会では天体の動きについて、地球が固定されていて、その上を太陽が動いているという説を唱えていた。ところがコペルニクスその他の少数の学者が毎日、太陽の東の空に上がる時期と場所、及び太陽が西の空に沈む時期と記録して計算して見ると、地球が動かずに太陽がその上を動いているという理解では、計算が合わない。しかしカソリツク教会では、これまで自分達の主張して来た説を覆すことは、自分たちの権威を失墜させる事に繋がるので絶対に認めず、甚だしい場合にはそのような説を主張する者を、火あぶりの刑にしてまで教会の説を守ろうとした。しかし事実は事実でしかなかつた。そこで教会の説も長い間には、修正しなければならない事となつた。
この事はヨーロツパ社会にとつては、想像することも出来ない程の大事件であつたであろう。
このような事件が動機となつて、社会の人々の教会に対する態度が一変した。それがヨーロツパ社会におけるルネツサンスと呼ばれる大事件である。人々は観念論に縛られていた中世の考え方から抜け出して、遠く古代のギリシャ・ローマの時代に盛んであつた、太陽の燦々と輝くような明るい文化に憧れて、その文化を勉強するようになつた。それがルネツサンスと呼ばれる歴史上の大きな出来事である。
その結果、ヨーロツパ社会に大きな変化が現れた。人々はそれまでキリスト教会で主張していた教えを絶大視することがなくなり、自由にさまざまの問題を考えるようになつた。その結果、人々は昔から固定的に強制されて来た教えに疑問を持ち、何でも自分の眼や耳などを使つて確かめるようになつた。つまり科学思想の発生であり、唯物論思想の興隆である。その後宗教改革、アメリカの独立、フランス革命,産業革命、第一次世界大戦等が起こるとともに、科学が非常な勢いで進み、生産力が非常に發達した処から、偉大な産業が生まれ近代資本主義が生まれた。この様子を見ていると唯物論という考え方が如何に人類に大きな貢献をしたかが解る。

2005年12月3日土曜日

観念論と唯物論の再評価(1)

仏教が観念論の立場を批判し、唯物論の立場を批判しているからといつて、人類の歴史における観念論と唯物論の価値を低く見る事は許されない。何故ならば、観念論も唯物論も人類の歴史の中で偉大な役割を果たし、その結果、今日われわれが享受している偉大な文化があるからである。
先ず観念論であるが、その発生は人類の発生と同じ時期まで遡ると考えられるのであるが、歴史的に見た場合でも、少なくとも古代ギリシヤの時代まで遡る。紀元前5世紀から4世紀にかけてプラトンという哲学者が活躍したが、彼はこの世の中が理性的な存在であり,宇宙を支配している理性其のものが、実在である事を主張し、我々の眼の前に見えている感覚的な世界は、理性から生まれた幻影に過ぎないという主張をし、その証拠として数学の理論が宇宙の隅々まで行き渡つていることを主張した。したがつて彼はこの世の中の一切が、人間の理性によつて解明出来る事を主張し、その弟子であるアリストテレースも同じように人間の理性的な思考により、一切の事柄を人間の思考を通じて解明することを、哲学の任務とした。この考え方はやがてローマに伝わつたが、さらにローマ帝国の末期に,中近東から流れて来ていたキリスト教信仰と出会つた。教父時代における代表的な神学者である聖アウグステイヌスは、プラトンの思想がその基礎となついると云われており、また中世における最大の神学者とされているトマス・アクイナスは、アリストテレースの思想に依拠していると云われている。また大陸合理論と呼ばれるデカルト、スピノーザ、ライプニツなどの思想家の中にも、観念論の影響が見られる。そしてその後にドイツで生まれたカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ観念論においては、イギリスにおける人間の感覚的な働きを重要視した経験論に対比して、人間の理性的思考に対する重要性が強調された。殊にその中でもヘーゲルは精神現象学等の著作を通じて、この世の中の一切を精神の現象として理解することに努力した。したがつてわれわれは観念論哲学が、如何に大きな影響を人類の歴史に与えたかを考え、それを大きく評価しなければならない。

(おしらせ)このブログのURLは過日、http://とgudoblog÷÷÷÷との間にスペースを空けましたが,それは小生の誤りでありますので、http://gudoblog-j.blogspot.com/にご訂正願います。

2005年12月2日金曜日

観念論と唯物論の否定

(おことわり)このブログにおいては、サンスクリツトの原語を表記する場合に、通常われわれが使つているパラサン・ローマンという表記法を使う事なく,単純にローマ字による表記法を採用して、無用の文字化けを防ぐことにしたいと思います。

仏教または仏道が、この世の中の実在を信ずる宗教であるとすると、其の事は仏教が欧米の社会で非常に發達した観念論と唯物論とを共に否定した考え方であるという主張が、登場して来ざるを得ない。事実、明治維新以前に仏教を勉強され、後に総持寺の貫主さんをされた西有穆山禅師は、「正法眼蔵啓廸」という著作の中で、「断見外道と常見外道とは、佛法の敵じや」と云われている。このことは、明治維新以前の仏教においては,唯物論と観念論とが佛教とは完全に世界観を殊にする考え方である事が,明確に認識されていた。しかし明治維新以降になると、ある非常に有名な大学教授が,「仏教唯心論」という書物を書いておられる。そしてこのことは、明治維新以降の仏教学においては、佛教思想は当然観念論思想であり、それ以外の想定を考える必要はないという考え方があつたのではないかと心配される。何故かというと断見外道とは、uccheda-drstiの事であるから唯物論を意味し、常見外道はsasvata-drstiの事であるから、観念論の事を意味するからである。

2005年12月1日木曜日

「さとり」とは何か

「さとり」とは、われわれが、心の世界でもなく、物の世界でもなく、現実の世界の中に生きているという事実を、単に頭の中だけではなしに、体全体を通じて実観することである。
そんなことは誰でも何時も実感していると、人々は云うかもしれない。しかし人々の中には、俺は心の世界の中に生きている考えている人も沢山いるし、俺は物の世界の中に生きている感じている人も沢山いる。何故そのようなことが起こるのかということを考えて見ると、このことは20世紀になつて、近代的な心理学と生理学とが發達するまでは分からなかつた。しかし幸いにして人類の優れた文化の發達により、はつきりして来た。それは人間の体の中に、したがつて人間の心の中に、自律神経と呼ばれる神経組織のあるということが、はつきりして来たことと関係している。
われわれのわれわれの体の中には自律神経と呼ばれる神経組織があつて、それが更に交感神経と副交感神経とに分かれている。そして交感神経の方が、人間のものを考える働きと密切に関連しており,副交感神経の方が人間の物を感ずる働きと密切に関連している。したがつて偶々交感神経の強い人は、物事を考える機会が多い所から、自分は心の世界に生きていると考え勝ちであるし、副交感神経の強い人は,外界の世界に対して敏感である処から、自分は物の世界の中に生きていると感じ易い。
なんだそんなくだらないことは、どつちでも良いではないかという人も多いかもしれないが、実はこの自律神経の在り方が、人間が観念論者で有るか,唯物論者であるかを決める。