ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2006年2月10日金曜日

現実(4)神と宇宙

私の仏教概論を終わるに当つて、私は神と仏教との関係を考えて見たい。何故かというと、多くの仏教学者は、仏教は無神論だと考えている。しかし私の場合、神と仏教との関係を考える事は,それほど容易なことではない。何故かと云うと、キリスト教の例を見ても,神の問題は非常に重要であり、問題を解決するため、非常に多くの理論がある。そこで私は、神の問題を考えるに当つても、非常に慎重でなければならないと思う。
それと同時にわれわれが、現に今住んでいるこの世界を考えた場合、それを理解する事も、そう易しいことではない。たとえばわれわれが、太陽系のことを考えた場合、私は太陽や地球のように大きな幾つかの天体が,現に空間に維持されている理由が、よく解らない。われわれの科学的な知識がある程度発達して来たために、われわれは,この世の中の全てのものが重力を持つているという単純な事実の存在は知つているけれども、ではどうして重力という不可思議な現象が、この世の中に存在するのかを考えて見ると、私は重力がこの世の中に何故存在するのかという根源的な理由が解らない。したがつてわれわれは現にその中に住んでいるこの世の中が、しばしば予想に反して、非常に神秘的であり、奇跡的であることを考えなければならない。
そしてそれと同時にわれわれは、この世の中がある種の秩序によつて支配されている事実を、了承する必要がある。われわれはこの世の中が正に宇宙の秩序によつて支配されている世界であり、ある種の宇宙秩序によつて支配された組織的な世界であることを、認めざるを得ない。
しかしこの世の中は、やはり盲目的なエネルギーに満たされた領域でもある。したがつてわれわれはこの世の中が、ある種の盲目的なそして神秘的な空間であつて、この世の中がやはり何らかの基準によつて、管理されなければならない世界でもある事を、疑うことが出来ない。一体誰がそのように盲目的な世界を、管理することが出来るであろうか。そして私はそのような問題を考えた場合、そのように膨大な盲目的なエネルギーを、何とか自分達の手で管理して行こうと努力しいるわれわれ人類の意図が、非常に貴重なものであると思う。しかし現にその中に住んでいるわれわれ人類は、まだ十分に盲目的なエネルギーを使いこなしているとは云えない。
そこでわれわれが現に直面している宇宙の現状を、ありの侭に眺めてみると、一方では厳然とした宇宙の秩序があり、一方ではわれわれ人間では容易に管理する事の出来ない盲目的なエネルギーの存在する世界のように、観察される。そのような状況の中で,われわれ人類は確乎不動の宇宙の原則と盲目的なエネルギーとの板挟みになりながら、可成りよく健闘しているようにも見受けられる。
しかしそのような状況の中で、世界における最も緊迫した課題は、恐らく観念論哲学と唯物論哲学との完全に対立した関係であろう。宗教的な人々は、彼等の観念論哲学に誘導されて,精神的なものに憧れている。しかし唯物論的な基礎に立つて、精神的な価値を全く認めようとしない人々は、経済的な価値を得ることに非常に熱心であり、観念論的な価値を激しく嘲笑する。そこでもしも同じ社会に属するわれわれが、完全に対立した思想を持ち、極めて対立した態度を持ち続けながら、果たしてさまざまの共通課題に付いて、同じような妥当な態度を取ることが出来るであろうか? 私は、人類は観念論戦線と唯物論戦線との対立の中で、平和な関係を維持する事は、永遠に不可能であると考えている。
したがつてそのような状況の中で、もしも人類が完全に対立している二つの哲学、すなわち観念論と唯物論とを共存させて行こうとするならば、それはこの地球上においては殆ど実現不可能な試みに対して、社会の人々が無限の努力を続けて行こうとする事であつて、決して賢明な態度とは云えない。それは今日まで人類が盲目的に続け来た努力を、さらに絶望的な態度で続けて行こうとすることであつて、そのように不合理な努力を通じて、人類が何らかの平和を見出しそれを保つて行くことは、完全に不可能であると思う。
そしてそのように人間社会が,観念論と唯物論との共存を無責任に放置するならば、人類社会に極めて緊急な課題が発生する。それは神の問題である。今日においても、神に対する宗教的な人々の愛が、如何に強いかということは、殆どの人々がよく知つている。そしてもしも神の維持ということに付いて、何の解決策もないとするならば、宗教的な人々が観念論哲学を離れるということが、どうしてあり得よう。そのような場合には、彼等が観念論哲学に関する信仰を絶対に離れない可能性さえあり得る。しかしわれわれが、仮に唯物論が持つている神に対する嫌悪を考えた場合、唯物論者における神に対する嫌悪も非常に激しいものがあるから、唯物論者が神に対する信仰を容認することも、殆ど不可能であると考えられる。そしてそのような状況の中では、もしも人類が神に関する非常に難しい問題を解決する事ができない限り、人類が現実に対する信仰を確立することも、完全に不可能であろう。
そこで神に対してわれわれは、一体どのように考えたらよいのであろうか。近代的な科学思想が教える限りでは、宇宙は常に間断なく無限に拡大していると云われている。そしてもしもわれわれがそのような事実を肯定するならば、無限に拡大しつつあるこの宇宙の外側に、この宇宙とは別の宇宙があることを、想定することは非常に困難であり、したがつて神がこの宇宙の外側における存在であると考えることも非常に困難である。そしてそのよな状況の許では、われわれは神がこの宇宙の内側にあると、考えざるを得ない。しかしその場合、神をこの宇宙の中の一部と考えることは許されない。何故かと云うと、神は全てであり,あらゆる場所に存在し、全能であり、絶対でなければならないからである。
そのように考えて来ると、私は神が従来実際の実情よりも、過小な形で想定されて来たのではないかということを恐れる。そして神の革命的な復活を、真剣に考えるべきではないかと思う。私は、人類が「神は宇宙である、宇宙は神である」という考え方を受け入れるべきであると思う。神と宇宙とは一つの崇高な実在である。神は宇宙であり,宇宙が神である。そしてその神でもあり、宇宙でもあるものが、現実と呼ばれている。
われわれは神の中に住み,宇宙の中に住んでいる。そしてその事実を具体的に実観させてくれるものが、坐禅である。われわれは坐禅をすることによつて、神の中に坐り,宇宙の中に坐り、行いの中に坐り、現実の中に坐る。

以上を通して私は、現在私が考えている仏道を、最も簡潔な最も真実な方法を使つて表現して見た。多くの人々が先ず仏教の概略を理解し、やがて坐禅を通じて、仏道の世界に入つて行くことを、強く願がつている。
                                          (仏教概論終わり)

2006年2月6日月曜日

現実(3)現在の瞬間における行いと宇宙

私は現実に関する(1)と(2)とにおいて、宇宙に広く行き亘つている理性と客観的な世界とを、現実に関する二つの内容として説明した。しかし現実そのものを、もつと実践的に本当の意味での現実として捉えた場合には、(1)の理性は理知的な思考における一つの解釈であり、(2)の客観的な世界もわれわれの感覚的な刺激を通じて捉えた、経験的な映像でしかない。したがつて徹底して現実的な仏教哲学においては、更に現実的な現実そのものを追求する。そしてそのように極めて現実的な立場を基礎にして捉えた現実が、現在の瞬間におけるわれわれの行いである。
仏教においては、われわれの過去における行いを、過去に於ける行いの記憶として理解し,現実の行いとして理解しない。またわれわれの未来における行いを、単に未来に対する想像として理解し、現実の行いとしては理解しない。しかも現在における行いに対する認識についてさえも、それが単に現在における認識である限り、それは飽くまでも認識そのものであつて、現実の行いそのものではあり得ないこと主張している。この主張は、古代インドの仏教僧である竜樹尊者の「中論」を読んで、始めて知つた処ではあるけれども、後に道元禅師の正法眼蔵に遡つて検討して見ると、[行佛威儀」、「身心学道」等の中に認めることの出来る思想であつた。
このように極めて純粋な現実の行いは、過去においても実在することが不可能であり、未来においても実在する可能性がない。何故かと
云うと、過去に対する記憶は想念であつて、実在ではあり得ないし、未来に対する想像も、想念であつて実在ではあり得ないからである。
現在の瞬間における現実の行いというものは、このように過去に於ける記憶や未来に対する想像とは異なる実態を持つており、この現実に於ける行いに対する考え方が、仏教哲学の全てを貫く基本構造であることを、われわれはしつかりと捉えなければならない。この現在の瞬間に於ける極めて現実的な行いの意味を、坐禅その他の行いを通して実観するのでなければ、仏道は到底われわれ自身のものにはならない。
そして「中論」の第一章、第九頌においては、
「宇宙の秩序がまだ現れていない段階では、自分自身を規制する自己管理の能力も現れては来ない。
 間断のない心の働きが自己管理の状態によつて縛られていない場合には、確かな事実も全く不明確である。」
と説かれているけれども、その意味は、宇宙の秩序、したがつて宇宙自身とわれわれの自己を管理する能力、すなわちわれわれ自身が実行することの出来る、現在の瞬間における現実の行いとは、同じ事実の裏表であるという主張がある。私はこの頌を読んだ時には、最初
その意味が解からなかつたが、繰り返し読んで行く中に解つて来たことは、仏教思想の中にわれわれの現在に於ける現実の行いと、その環境としての宇宙とが、同一事実の裏表としてあり、それが現実と呼ばれる事実の実態であるとする考え方のあることに気が付いたことである。そしてこの考え方に行き着いた時に、仏教哲学がやはり一つの完全に纏まつた現実主義の思想体系であることに気が付いた。
したがつて仏教哲学の立場からするならば、われわれは過去の栄光を思い浮かべて、過去を懐かしんで見ても、実質的な意味は何も無いし、過去に犯した過ちを繰り返し繰り返し後悔して見ても、建設的なものは生まれて来ない。それと同時にまだ来ていない未来のことを考えて不安に怯えたり、まだ手に入つていない幸福を夢見て時間を空費して見ても,何の意味もない。唯、与えられた現在の瞬間を、バランスした状態で真剣に生きて行く事が,人類にとつて最も幸せな状態であることに釈尊が気付かれ、そのような教えを残すされたことが、釈尊が説かれた最大の眼目である。
人生は思想ではない、感覚的な刺激ではない、自分自身をしつかりとバランスさせて、自分らしい人生を生きて行くことに尽きる。そしてそれが、宇宙の実体である。

2006年2月2日木曜日

現実(2)客観的な世界

佛教哲学においては、現実についてもその第一段階において、この宇宙に満ちあふれている理性そのものを指すのであるが、その次の段階としては、われわれが現にその中に住んでいる客観世界を問題とする。観念論や唯物論のように問題を単に理知的な立場だけで考える場合には、宇宙を理性の遍在する世界として捉えた場合、それが同時に物質の集結した物の世界として考えることを許されない。しかし現実そのものを基礎とする仏教哲学においては、釈尊の説かれた四諦の教えにしたがつて、当然、反対側の側面、すなわち客観的な世界の側面からも捉える必要がある。
仏道の立場から考えるならば、現実はわれわれが現に眼の前に見ている客観的な世界そのもでもある。太陽系と呼ばれる太陽を中心とした天体の中の一つである、地球と呼ばれる惑星の表面に発生した人類の文化も、また一つの現実である。そしてわれわれ人類はその地球と呼ばれる天体の表面で、少なくとも数千年以上の歴史を形成し続けて来たが、21世紀の現在に於いても、われわれは以前として、歴史的な現実を生きている。
そしてそのような現実の中で、私が非常に感謝している一点は、1991年にソヴィエツト連邦とアメリカ合衆国とが、第三次世界大戦を回避して呉れたことである。それ以前には私は、世界の情勢から考えて第三次世界大戦は回避することが出来ないと判断し、もし第三次世界大戦が起きた場合、地球の表面の数十%は、廃墟になるであろうと覚悟していた。何故かというと1945年の広島、長崎においても、われわれが実際に受けた原子兵器の被害は、われわれの想像を絶するものであつた。しかもその時代から既に60数年を経過した今日においては、その間における原子兵器の発達も、われわれが想像する範囲を遥かに超えているであろう。したがつて、もしも米ソの間で原子兵器が実際に使われた場合には、その被害の程度を想像することが、不可能な程度のものであつたであろう。したがつてアメリカ政府とソ連政府との努力により、第三次世界大戦が回避されたことは、大変有り難いことであつた。本当に心の底から喜ぶことが出来た。人類は自分達が開発した原子兵器を使つて自滅する程、馬鹿ではないことを確認することが出来た。
私は世界の歴史に対して奇妙な見方をしている。それは世界の歴史を、スポーツのトーナメント方式による大会における争いと同じような組織と見る見方である。古代社会に於いては無数の小民族があり、それぞれがそれぞれの特異な文化を持つており、それらの小民族の間で、文化の優劣に関する争いがあると、最終的には双方の民族が武力抗争をし、強い方つまり文化的水準の高い方が勝ち残るという過程が、何回となく繰り返されたという理解の仕方である。その結果、世界最終の決勝戦における最終の当事者として登場した二国が、アメリカとソ連であり、そのトーナメント方式の争いにおける優勝戦の勝利者が、アメリカであつたという見方である。
そしてもしもそれが歴史的な事実であるとするならば、われわれは世界の最終戦はすでに終わつたと考える事が出来る。したがつてアメリカは、その強大な軍隊を自国及び世界の警察に変える事が出来る。その他の各国もその軍隊をそれぞれの国の警察にすると共に、世界の警察としても協力する事が出来る。
私は原子兵器が将来、地球の表面において使われる事は恐らくあり得ないという見方をしている。何故かというと既に60年程以前にはなるけれども、その時でさえ想像もできないような被害を齎した原子兵器を、更にもう一度使つて見ようと云う意思を持つ程、人類が愚劣であるとは、到底想像する事が出来ないからである。現在の世界にとつて最も重要な問題の一つは原子兵器である。しかし人々は、それがあまりにも脅威であり,恐怖の対照となつている処から,正面切つてその議論をすることを好まない。しかし仏道としてはそのような非現実的な態度を許さない。仏教徒はその中心的な現実主義の考え方にしたがつて、常に実践的な態度を取るべきである。勿論、原子兵器の問題は、単なる一例に過ぎないが、われわれは日常生活における一切の問題に直接触れ、それを飽くまでも現実の問題として解決する義務がある。