ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

English / German

2006年6月16日金曜日

普勧坐禅儀(2)本文

(本文)

原(たず)ぬるに夫(そ)れ道本円通(どうもとえんずう)争(いかで)か修証(しゅ
しょう)を仮(か)らん、宗乗自在(しゅうじょうじざい)何(なん)ぞ功夫(くふう
)を費さん。況(いわ)んや全体はるかに塵埃(じんあい)を出(い)ず、孰(たれ)
か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん、大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈
(あ)に修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。

然(しか)れども毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸(はるか)に隔(へだた)り、違
順(いじゅん)わずかに起れば紛然(ふんぜん)として心(しん)を失(しっ)す。直
饒(たと)い会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして瞥地(べっち)の智通(ちつう)を
獲(え)、道(どう)を得(え)、心(しん)を明らめて衝天(しょうてん)の志気(
しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量(へんりょう)に逍遙(しょうよう)
すと雖(いえど)も、幾(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生地(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(
しょうせき)見つべし、少林の心印(しんいん)を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい
)の声名(せいめい)尚聞こゆ、古聖(こしょう)既に然(しか)り、今人(こんじん
)盍(なん)ぞ弁ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語(ご)
を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照(えこうへんしょう)の
退歩(たいほ)を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して本来の面目(
めんもく)現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば急(きゅう)に恁麼(
いんも)の事を務めよ。

それ参禅は静室(じょうしつ)宜しく飲食(おんじき)節あり。諸縁を崩捨(ほうしゃ
)し、万事(ばんじ)を休息して善悪(ぜんなく)を思わず是非を管(かん)すること
莫(なか)れ。心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の
測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ、豈(あ)に坐臥(ざが)に拘
(かか)わらんや。尋常(よのつね)坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、
上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)、謂
(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿
の上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿を圧(お)すなり、寛(ゆる)く衣帯
を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし。

次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大
拇指(だいぼし)向かいて、相(あい)さそう、乃(すなわ)ち正身端座(しょうしん
たんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐ
ことを得ざれ、耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対しめんことを要す。舌、上の顎(あぎ
と)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし、
鼻息(びそく)微(かす)かに通じ身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっ
そく)し、左右揺振(さゆうようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)
して箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底如何(
いかん)が思量せん、非思量、此(こ)れ乃ち坐禅の要術なり。

所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には非(あら)ず、唯だ是れ安楽の法門な
り、菩提(ぼだい)を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり、公案現成(こ
うあんげんじょう)、羅籠(らろう)未(いま)だ到(いた)らず、若し此の意を得ば
竜(りゅう)の水を得(う)るが如く虎の山に靠(よ)るに似たり、当(まさ)に知る
べし正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先(ま)ず僕落(
ぼくらく)することを、若(も)し坐より立たば徐徐(じょじょ)として身を動かし、
安詳(あんじょう)として起(た)つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。

嘗(かつ)て観る超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)
も此の力に一任することを。況(いわ)んや復(また)指竿針鎚(しかんしんつい)を
拈(ねん)ずるの転機、払拳棒渇(ほっけんぼっかつ)を挙(こ)するの証契(しょう
かい)も、未だ是(こ)れ思量分別(しりょうふんべつ)の能(よ)く解(げ)する所
に非ず、豈(あ)に神通修証(じんずうしゅしょう)の能(よ)く知る所とせんや。声
色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし、なんぞ知見の前(さき)の
軌則(きそく)に非ざる者ならんや。

然(しか)れば則(すなわ)ち上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじん
どんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば
正(まさ)に是れ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汚(
ぜんな)せず、趣向(しゅこう)更(さら)に是れ平常(びょうじょう)なるものなり



凡(およ)そ夫(そ)れ自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等
しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす、唯
(ただ)打坐(たざ)を務めて兀地(ごっち)に礙(さ)えらる、万別千差(まんべつ
せんしゃ)と謂(い)うと雖(いえど)も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし、何ぞ自
家(じけ)の坐牀(ざじょう)を抛却(ぼうきゃく)して謾(みだ)りに他国の塵境(
じんきょう)に去来(きょらい)せん。若(も)し一歩を錯(あやま)れば当面に蹉過
(しゃか)す。


既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり、虚(むなしく)く光陰を度(わた)
ること莫(なか)れ、仏道の要機(ようき)を保任(ほにん)す。誰(たれ)か浪(み
だ)りに石火(せっか)を楽まん、加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は草
露(そうろ)の如く、運命は電光(でんこう)に似たり、しゅく忽として便(すなわ)
ち空じ須臾(しゅゆ)に即(すなわ)ち失(しっ)す。

冀(こいねがわ)くは其(そ)れ参学の高流(こうる)、久しく模象(もぞう)に習っ
て真竜(しんりゅう)を恠(あや)しむこと勿(なか)れ、直指端的(じきしたんてき
)の道(どう)に精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そん
き)し、仏仏(ぶつぶつ)の菩提(ぼだい)に合沓(がっとう)し祖祖(そそ)の三昧
(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば須
(すべから)く是れ恁麼(いんも)なるべし、宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開(
ひら)けて受用如意(じゅようにょい)ならん。




(普勧坐禅儀)「普」は「あまねく、ひろく」の意味であり、人間であれば誰でもの意味である。沢木老師は、単に出家だけではなく、在家の人も含めての意味であると云われていた。何れにしても広く広めるの意味である。また「坐禅」は古くからインドに伝えられた修行法の一種である、ヨガのさまざまの姿勢の中から、最高の姿勢として釈尊が選ばれた姿勢であるが、それ以来仏道の世界において、常に最高の修行法として、受け継がれて来た方法である。
普勧坐禅儀には、真筆本と流布本との二種類の編纂がある。真筆本は道元禅師ご自身の手で書かれた最初の原本であるが、流布本はその後道元禅師が何回となく手を加えられて、完成されたものと推定される。原本は何れも漢文で書かれているが、此処では読み易い事を主眼としたため、書き下し文とした。
(本文)(この本文はドーゲン・サンガ 京都の海老沢満男さんがインター・ネツトで発見されたものを、多少修正して、使わせて頂きました。)

普 勧 坐 禅 儀
原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(どうもとえんずう)、争(いかで)か修証(しゅ
しょう)を仮(か)らん、宗乗自在(しゅうじょうじざい)何(なん)ぞ功夫(くふう
)を費さん。況(いわ)んや全体はるかに塵埃(じんない)を出(い)ず、孰(たれ)
か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈
(あ)に修行の脚頭(きゃくとう)を用うる者ならんや。

然(しか)れども毫釐(ごうり)も差あれば、天地懸(はるか)に隔(へだた)り、違
順(いじゅん)わずかに起れば、紛然(ふんねん)として心(しん)を失(しっ)す。直
饒(たと)え会(え)に誇り悟(ご)に豊かにして瞥地(べっち)の智通(ちつう)を
獲(え)、道(どう)を得(え)、心(しん)を明らめて、衝天(しょうてん)の志気(
しいき)を挙(こ)し、入頭(にゆっとう)の辺量(へんりょう)に逍遙(しょうよう)
すと雖(いえど)も、幾(ほとん)ど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生地(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(
しょうせき)見つべし、少林の心印(しんいん)を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい
)の声名(しょうみょう)尚聞こゆ、古聖(こしょう)既に然(しか)り、今人(こんじん
)盍(なん)ぞ弁ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(ごん)を尋ね語(ご)
を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須らく回光返照(えこうへんしょう)の
退歩(たいほ)を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して本来の面目(
めんもく)現前せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば急(きゅう)に恁麼(
いんも)の事を務めよ。

それ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり。諸縁を放捨(ほうしゃ
)し、万事(ばんじ)を休息して、善悪(ぜんあく)を思わず、是非を管(かん)すること
莫(なか)れ。心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の
測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏(さぶつ)を図ること莫れ、豈(あ)に坐臥(ざが)に拘
(かか)わらんや。尋常(よのつね)坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、
上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐(けっかふざ)、或いは半跏趺坐(はんかふざ)。謂
(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿
の上に安ず。半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿を圧(お)すなり、寛(ゆる)く衣帯
を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし。

次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安じ、両の大
拇指(だいぼし)向かいて、相(あい)さそう、乃(すなわ)ち正身端坐(しょうしん
たんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐ
ことを得ざれ。耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎ
と)に掛けて、唇歯(しんし)相着(あいつ)け、目は須(すべか)らく常に開くべし。
鼻息(びそく)微(かす)かに通じ、身相(しんそう)既に調えて欠気一息(かんきいっ
そく)し、左右揺振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)
して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底如何(
いかん)が思量せん、非思量、此(こ)れ乃ち坐禅の要術なり。

所謂(いわゆる)坐禅は習禅(しゅうぜん)には非(あら)ず、唯だ是れ安楽の法門な
り。菩提(ぼだい)を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こ
うあんげんじょう)、羅籠(らろう)未(いま)だ到(いた)らず。若し此の意を得ば、
竜(りゅう)の水を得(う)るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。当(まさ)に知る
べし正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先(ま)ず撲落(
ぼくらく)することを。若(も)し坐より立たば徐徐(じょじょ)として身を動かし、
安詳(あんしょう)として起(た)つべし、卒暴(そつぼう)なるべからず。

嘗(かつ)て観る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)
も此の力に一任することを。況(いわ)んや復(また)指竿針鎚(しかんしんつい)を
拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼっかつ)を挙(こ)するの証契(しょう
かい)も、未だ是(こ)れ思量分別(しりょうふんべつ)の能(よ)く解(げ)する所
に非ず、豈(あ)に神通修証(じんずうしゅしょう)の能(よ)く知る所とせんや。声
色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし、なんぞ知見の前(さき)の
軌則(きそく)に非ざる者ならんや。

然(しか)れば則(すなわ)ち上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじん
どんしゃ)を簡(えら)ぶこと莫(なか)れ、専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば
正(まさ)に是れ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汚(
ぜんな)せず、趣向(しゅこう)更(さら)に是れ平常(びょうじょう)なるものなり



凡(およ)そ夫(そ)れ自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等
しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす、唯
(ただ)打坐(たざ)を務めて兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差(ばんべつ
せんさ)と謂(い)うと雖(いえど)も、祇管(しかん)に参禅弁道すべし、何ぞ自
家(じけ)の坐牀(ざじょう)を抛却(ぼうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境(
じんきょう)に去来(きょらい)せん。若(も)し一歩を錯(あやま)れば当面に蹉過
(さか)す。


既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり、虚(むなしく)く光陰を度(わた)
ること莫(なか)れ。仏道の要機(ようき)を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(み
だ)りに石火(せっか)を楽まん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は草
露(そうろ)の如く、運命は電光(でんこう)に似たり。しゅく忽として便(すなわ)
ち空し、須臾(しゅゆ)に即(すなわ)ち失(しっ)す。

冀(こいねがわ)くは其(そ)れ参学の高流(こうる)、久しく模象(もぞう)に習っ
て真竜(しんりゅう)を恠(あや)しむこと勿(なか)れ。直指端的(じきしたんてき
)の道(どう)に精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そん
き)し、仏仏(ぶつぶつ)の菩提(ぼだい)に合沓(がっとう)し、祖祖(そそ)の三昧
(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば、須
(すべから)く是れ恁麼(いんも)なるべし。宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開(
ひら)けて受用如意(じゅようにょい)ならん。

2006年6月8日木曜日

普勧坐禅儀(1)解説

(建仁寺における道元禅師)道元禅師は1212年、京都の延暦寺において出家され、同寺において3年間程修行されたが、当時の延暦寺における修行が、あまりにも理論的な研究のみに傾いている事を知り、京都の建仁寺に栄西禅師を訪ね、建仁寺に移られた。
建仁寺は臨済宗に所属する寺院であつたから、道元禅師も建仁寺においては、臨済宗の修行法に従い、師匠から公案と呼ばれる、仏教哲学に関する短い例話を与えられ、坐禅の最中もそのような物語の意味を考える事に依り、いわゆる「さとり」を得ることに、努力されたことであろう。しかし道元禅師は、その頭脳の極めて明晰な方であつたから、何か特別の体験をしていないにも拘らず、そのような体験を得たかのように錯覚する事が出来る程、脳細胞の働きが正確さを欠くような方ではなかつた。したがつて、道元禅師ご自身は建仁寺において、坐禅をする機会を得たけれども、いわゆる「さとり」を得たという実感をお持ちになることが、無かつたものと思われる。
其処で道元禅師は、当時の日本における坐禅の仕方が正しいか否かに疑問を持たれ、何れ中国に渡つて、中国における正しい方法に従つて坐禅をし、「さとり」を得たいと考えておられたのではないかと推察される。ところが当時、栄西禅師の後を継いで建仁寺の第二世の住職になつておられれた佛樹明全和尚も、道元禅師と同じように頭脳明晰な方であつたと見えて、自分は悟つたという確信をお持ちにならなかつたように思われる。何れにしても、明全和尚と道元禅師とは、相携えて「さとり」を開く為に、中国に行かれる事を決意された。
(中国における道元禅師と明全和尚)中国に行かれた明全和尚と道元禅師との内、明全和尚は中国に行かれてから、2年程経過した時点で病に侵され、1225年5月27日に天童山景徳寺において、亡くなられた。しかし道元禅師の場合は、正しい師匠に巡り会うために、多数の寺院を歴訪しておられたが、やはり1225年の5月1日に天童山景徳寺において、天童如浄禅師と相見され、その後1227年の秋に日本に帰国されるまでの間、天童如浄禅師の下で修行された。
ここで道元禅師が天童如浄禅師に会われたことの意味は大きい。何故かと云うと、道元禅師はそれまで京都の建仁寺で修行しておられたから、坐禅の修行に付いても、修行をする事以外に別に「さとり」があるものとばかり考え、「まだ悟れない、まだ悟れない」と考えながら、一刻も早く悟る事を考え、そのために遠く中国まで旅行して来たという事が云える。しかし中国において天童如浄禅師から与えられた教えは、正法眼蔵行持の巻にも述べられているように、「参禅は身心脱落なり。焼香、念仏、修懺、看経を用いず、只管に打坐せば、始にして得たり」であつたと云われている。その意味は、「坐禅をするということは、自律神経をバランスさせて、体と心に対する意識から脱け出すことである。唯坐禅さえするならば、体と心の意識から脱け出すことは、始めから達成されている」と云われている。そしてこの考え方が、佛教哲学の意味を考える面で、もつとも大切な考え方の一つである。坐禅は、坐禅をすることが手段で、「さとり」を得ることが目的であるという考え方ではない。坐禅は行いであるから、修行と体験とが一つに重なつて、坐禅の中に含まれている。坐禅においては、修行する事が、第一の「さとり」であり、坐禅さえ実行しておれば、第二の「さとり」は何時か到来する。
(普勧坐禅儀の執筆)道元禅師は1227年、満年齢で27歳の時に、中国における仏道修行の旅から帰国された。そして間もなく、京都の建仁寺に入られたが、其処で普勧坐禅儀を書かれたとされている。道元禅師は中国に行かれる以前にも、建仁寺において9年間、坐禅の修行をされた。したがつてその当時は、建仁寺が所属している臨済宗の思想に従い、師匠から公案と呼ばれる仏教哲学に関する短い例話を受け、その意味を考えるという方法を取りながら、坐禅の修行をされた事であろう。しかしそのような方法では、どうしても「さとり」を開く状況に到達する事が出来なかつたので、「さとり」を得るために中国に行かれたと思われる。そして天童如浄禅師から、坐禅は、坐禅すること自体が目的であるという教えを伝えられる事により、仏教哲学の究極を知る事が出来た。
そこで道元禅師はそのような意味での佛教思想を日本に伝えようとされ、正法眼蔵弁道話の中でも、「丁度重い荷物を肩に載せたような実感であつた」と云われている。そのような状況の中で、普勧坐禅儀は書かれている。したがつて普勧坐禅儀は、道元禅師にとつても極めて大切な開教宣言である。
普勧坐禅儀には、通常真筆本と呼ばれている編集と、流布本(るふぼん)と呼ばれている編集との二種類があり、真筆本については、当時中国から伝えられた新し書体の代表的な作品という意味もあつて、国宝に指定されており、その原本は現在でも、永平寺に保管されている。なお流布本がどのような経緯から作成されたかと云う問題に付いては、今日までの処あまり議論が行われていないように見受けられるけれども、私が流布本を読んだ限りでは、文章が殆ど完璧であると感じられる程推敲が行われている処から、道元禅師が最初に真筆本を御書きになつてから、何回となく道元禅師ご自身の手で推敲が行われ、今日われわれが読誦している流布本が完成されたのではないかと考えている。

2006年6月3日土曜日

坐禅(4)日常生活と坐禅

(毎日実行)坐禅は必ず毎日やらなければ意味がない。何故かというと、坐禅をやつた日は自律神経がバランスするけれども、坐禅をしなかつた日は自律神経がバランスしない。したがつて、もしもわれわれが日によつて、坐禅をしたりしなかつたりすると、自律神経のバランスしている日と自律神経のバランスしていない日とが、交互に現れることとなるから、坐禅をやることがわれわれの日常生活を不安定にし、マイナスを与えるように錯覚させる場合がある。したがつて坐禅を始めた場合は努力して、毎日出来る習慣を付けなければならない。
(1日に2回は必ず実行)坐禅の修行は、自律神経をバランスさせる修行であるから、出来るだけ頻繁に実行することが望ましい。したがつて道元禅師も、永平清規(えいへいしんぎ)の中の弁道法という著作において、一日4回の坐禅を勧めておられる。それは早朝(後夜ーごや)の坐禅と、朝食後(早晨ーそうしん)の坐禅と、昼食後(哺時ーほじ)の坐禅と、夕方(黄昏ーおうこん)の坐禅とである。したがつてわれわれも、道元禅師の弁道法における本来の指示に従うべきであるが、道元禅師が生きられた13世紀の社会と、現にわれわれが生活している21世紀の社会とを比較して見ると、大きな違いが認められる。それは何かというと、13世紀と21世紀とにおける世界の文化体制、経済体制、社会体制の変化である。13世紀において道元禅師は、農業生産を中心とする封建制社会に住んでおられた。しかし現にわれわれは21世紀における資本主義経済の真つ唯中に生きている。そして資本主義の経済体制の中で生きている以上、われわれがそのような経済体制の中で生きて行くためには、それに見合う経済生活を支えるだけの金銭収入を、何らかの形で確保する必要がある。そのような観点から21世紀の現在における坐禅生活の在り方を考えて見ると、何が可能かという現実の限界がはつきりして来るのであつて、私はドーゲン・サンガに帰属しているわれわれとしては、1日2回の坐禅を励行するべきであるという考え方を持つている。
また1回の坐禅における時間の長さについても、どの程度に決めるべきかという問題があるけれども、これも当事者の判断により、また熟練の難易度により、15分、30分、45分など、環境に合わせて、自由に決める事が出来る。勿論特別の坐禅会その他で、特別に長時間坐る事も結構なことであるが、坐禅会の終わつた翌日なども、必ず坐禅を励行するべきであつて、休むことは許されない。
(場所)坐禅をする場所については、普勧坐禅儀の中に「静室(じょうしつ)宜しく」と書かれているから、成る可く静かな場所がよい。しかし特別に静かな山奥でなければならない等ということはない。またその広さも、正法眼蔵坐禅儀の中に「容身の地を護持すべし」と書かれているから、一人宛の人の坐れる場所があれば、充分である。
(服装)服装についても、特にこだわる必要はない。しかし釈尊の時代から使われているお袈裟に関しては、釈尊以来の伝統であるから、なるべく守りたいと思う。また実際に掛けてみると、大変気持ちのよいものであるから、在家の人々も遠慮することなしに、掛けることが望ましいと思う。但しお袈裟屋さんに注文すると、常識はずれに高いものであるから、化繊の布地のものを選んだり、ミシン縫いのものを選んだりする方がよいと思う。私はお袈裟を作るには、必ず手縫いでなければならないという考え方を持つていない。佛教書専門の大法輪閣という出版社から、「お袈裟の研究」という本が出ていて、お袈裟の作り方が詳しく書かれているので、熱心な人は自分自身で作れるし、ドーゲン・サンガの中にも、実際に作れる人が何人かおり、有志の人によつて実際に作る会も開かれているから、訊ねて見るとよいと思う。但し其処ではまだミシンで縫うことは、始まつていないと思う。

改訂版「中論」の発売

(お知らせ)改訂版「中論」の発売について
大変長い間お待たせしてしまいましたが、「中論」の改訂版がようやく(株)金沢文庫から発売される運びとなりました。改訂版には新しく単語や文法の簡単な説明が加わり、解説も分かり易く大量になりましたので、ページ数も初版本の丁度倍位になりましたが、全体が大分分かり易くなつた面では、よかつたと考えております。
今回、改訂版の「中論」を読んでみますと、竜樹尊者の思想は徹底した実在論でありますが、従来西洋哲学においては観念論哲学と唯物論哲学とが競争のように発達し、実在論は唯物論と同一であるという理解が先行していたために、独立した実在論の論理構造が欧米の哲学にはなかつたと云う事情が、はつきりして来るように思います。しかし「中論」が正確な形で読まれ、竜樹尊者の説かれた実在論哲学の弁証法的な基本構造が、「中論」を読むことによつて根本的に理解された場合、単に日本だけではなく、欧米全体に実在論哲学の基本構造が理解され、人類が過去において長く続いた、観念論哲学と唯物論哲学との争いから、抜け出すことが出来ると考えております。
私はこれまで「中論」の日本語訳と平行して、「中論」の英訳と独訳を進めて参りましたが、その両訳も既に7、80%の進行状況でありますから、ここ1、2年の内に「中論」の英訳と独訳を出版することが可能であると見ております。そしてそのような形で欧米の人々が、「中論」の英・独訳を通じて、佛教的な実在論を理解するようになつた場合、世界全体が従来の観念論と唯物論との対立を捨て、輝かしい実在論の時代に突入して行くことを期待しております。
私は日本人の一人として、日本国民が先ず「中論」の真意を理解し、日本国民の共同作業で佛教的な実在論が欧米に紹介されて行くことを期待しておりますが、従来の歴史的な推移から見ますと、逆に欧米人が先に仏教的な実在論の真意を知り、欧米で理解された佛教的な実在論が、改めて日本に導入される可能性があり、その推移がどちらに落ち着くかという事情は、今後の歴史的な推移を見守ることが、必要であると考えております。
何れにしても、私は竜樹尊者その他の努力により、佛教的な実在論が明確な思想体系の形で、21世紀の今日まで残されたという事実は、非常に有り難い事であり、われわれ人類は近い将来、「中論」に残されている竜樹尊者の天才的な理解の仕方を通じて、本当の意味での実在論に関する基本的な哲学構造を理解し、これまで人類の文化に対して膨大な栄光と膨大な混乱とを与えて来た観念論と唯物論との間に横たわる絶対的な対立を疑問のない形で解決することが、出来るように思います。
このような意味から、私は今回の「中論」に関する改訂版の発行を、私自身のためにも、人類全体のためにも、大変有り難いこととして、心から喜んでおります。

竜樹尊者著・西嶋和夫訳

「中論」     定価:本体2800円(税別)

株式会社 金沢文庫 発行
郵便番号 162−0845 東京都新宿区市ヶ谷本村町1の1
              住友市ヶ谷ビル8階
電話 03(3235)7060  FAX 03(3235)7135