ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

English / German

2006年8月25日金曜日

ドーゲン・サンガ(7)仏道はたつた一つ

仏道はたつた一つ

私が何故このブログを始めたかというと、それは仏道がたつた一つしか無いという基本原則に遡るように思う。この世の中に真実が幾つあるかを考えてみた場合、真実が三つも四つもあつたとすれば,それは可笑しい。何故かと云うならば,真実はたつた一つであればこそ、真実と呼べるのであつて、真実が二つも三つもあることを信ずるのであれば、それは真実を信じていることにならない。
しかし私は,人類は皮肉にもここ何千年にも亘つて、たつた一つの真実を求めることを放棄して来たように思う。何故かというと、人類は問題を彼等の優れた頭脳に頼るか、彼等の優れた感覚器官の働きを通して理解しようとしたために,真実を精神として捉えるか物質として捉えるかという二つの道の、どちらかを選ばなければならなかつた。つまり人類は、脳細胞の働きに頼るか、感覚器官の働きに頼るかのどちらかを選ばない限り、哲学を考える事が出来なかつた。そしてこのような状況の中では、たつた一つの真実を発見することは、絶対に不可能であつた。したがつて人類は何千年にも亘つて、たつた一つの真実を求める事を諦めて来た。
ところが不思議なことに、二千数百年前に人類の中に、もしも人類が観念論と唯物論との両方を捨てない限り、人類は決してたつた一つの真実に出会うことが出来ないということに気付いた人がいた。それが釈尊である。しかしこの釈尊の考え方は余りにも難し過ぎたため、人類の殆ど全員にとつて理解する事が出来ず、したがつて東洋においてはともかく、西洋においては、やつと十九世紀の中頃から、一人二人と解る人の出始めたことが人類の実情である。
そして釈尊の教えが人類にとつて、何故そのように難しかつたかを考えてみると、人類は幸いにして哲学問題を頭で考える優れた能力を持つて居た処から、先ず極めて壮大な観念論哲学を打ち立てることが出来た。しかしそれと同時に、極めて優れた感覚器官にも恵まれて居た処から、観念論に立派に対抗出来るような唯物論哲学をも獲得する事が出来た。そしてそのように優れた観念論と優れた唯物論とを共に持つていたことが,人類に対して、われわれが現にその中に生きている現実の世界を忘れさせる結果を齎した。したがつて人類は、何千年、何万年にも亘つて現実の世界を忘れ、観念論と唯物論との極めて優れた二つの哲学に頼つて、輝かしい文化を築いて来た。
しかし十九世紀の中頃に、キルケゴールが実存主義に関する最初の提言を唱え始めて以来、人類の哲学史は現実主義と云う新しい時代に、突入し始めたと見る事が出来る。そしてそのように人類が、新しい現実主義の時代を迎えるに当つては,欧米に於ける極めて論理的な伝統に沿うために、苦諦(観念論)と集諦(唯物論)とを併置した上で、その徹底的な矛盾を指摘し、理知の世界を離れて行いの世界(滅諦)、現実の世界(道諦)に参入して行く弁証法的な四諦の教えを活用することが、今後の人類文化の發展のために不可欠であると考えている。
私がドーゲン・サンガを設立した重大な理由の一つが其処にあつた。しかも佛教の場合には,単に理論だけの問題ではなく、古くから理知の世界から行いの世界に転換するための坐禅の修行があり、しかもその理論的な裏付けが自律神経のバランスという科学的な説明として、二十世紀、二十一世紀に登場しつつある。
したがつてこのドーゲン・サンガにおいても、既に確定された理論が更に發展することはあり得るけれども、既に確定した基本原則が覆ることは、恐らく覆ることがあり得ないのではないかと見ている。そしてそのような観点から、ドーゲン・サンガにおいては、釈尊、竜樹尊者、達磨大師、道元禅師その他の祖師方が説かれた教えを忠実に伝承し、沢木老師や丹羽廉芳禅師等の祖師方の努力を長く残す事に努力している。私は佛教思想に関する限り,その内容に関しては、既に二十一世紀においては、理論的に疑問の余地がなくなつており、そのように明快な宗教的原理が、たつた一つの世界原理として世界の誰からも受け入れられるような時代は、人類にとつて長年の夢であつたが、そのように長年の夢であつたたつた一つの真実という夢が、決して夢ではなく,現実世界の社会現象の中で、毎日進行しているという見方をしている。したがつてそのような意味で、ドーゲン・サンガが極めて限定されたたつた一つ世界観を追求し主張する事も、世界的な現象の一環として許されるのではないかと云う,やや甘い考え方をして居る。

ドーゲン・サンガにおける異なつた思想の離脱

(1)マイク・クロス君の場合
マイク・クロス君との付き合いは、もう三十年以上になるかも知れない。彼は最初、空手を勉強する為に日本に来たのであるが、私が東京大学の佛教青年会で行つていた、英語による正法眼蔵の講義に参加するようになり、私の所沢にある自宅などにも寝泊まりして、熱心に佛教を勉強するようになつた。しかし彼の欧米思想を根幹とする理知的なものの考え方から抜け出すことが難しかつたためか、彼はオーストラリヤ人のエフ・マテイアス・アレキザンダーという演劇関係の仕事をしていた人が主張し始めた、アレキザンダー・テクニーク(AT)という身体の訓練を伴つた健康法を勉強するようになり、そのATが佛教思想と同じであるという主張をするようになつた。そこでマイク・クロス君と私とは、その後十年以上に亘つて、二、三日毎に一回宛質疑のやり取りをして、問題の究明に努力したのであるが、私としては最後まで、ATと仏道とを同一視することについて危険を感じたので、両者を同一視する考え方を取らない方が正しいという結論に達し、現在でもその考え方を変えていない。
このブログを始めた段階でも、同じような論争は続いたけれども、最近彼が作つた詩の内容が、佛教思想と違うことを説明したことにより、彼も納得してくれたように思う。極く最近の彼のイーメイルでは、彼の思想が以前に比べて、非常にまともになつて来たのではないかと、感ずる面がある

(2)マイケル・ラツチフオード君の場合

マイケル・ラツチフオード君の場合も、私が東京大学の佛教青年会で英語の講義を始めるようになつてから、二、三年後に、私の講義に参加するようになつた人であつたと記憶している。私の講義を聞くようになつた最初の原因は,当時彼は日本でも有数な企業である日本電機(株)の社員として働いていた人であつたが、イギリスから急に来日して、日本の企業で働くことになつた彼としては、日本における国情とイギリスにおける国情とがあまりにも違い過ぎるところから、当時日本電機(株)の職場の中で、非常に苦しい思いをしているという事情を述べる為に、当時台東区の浅草橋にあつた(株)井田両国堂の本社に私を訪ねて呉れたことが最初であり、それから私の東大佛青における英語の講義も、熱心に聞くようになつた人である。
そして書物を作る能力も非常に優れているように感じられたので、私が殆ど全額を投資してウインドベル・パブリエイションズ(有)を設立した際に、彼を経営の代表者に選んで、一切の仕事を任せることにした。そして彼自身も書物の出版に非常な能力を持つて居た処から、非常にデザインの優れた何冊かの私の著作が、彼の努力によつて誕生した。
その後私は、佛教を専門に勉強する以上、サンスクリツトは当然読めるようにならなければならないと考え、中村元先生が設立された東方学院で、現在近畿大学の教授をしておられる清島秀樹先生のサンスクリツト講義を聴講する機会があり,それが終わつてからも自分一人で、竜樹尊者の書かれた「中論」を、梵英辞典や英語で書かれたサンスクリツトの文法書を頼りに読み始めた。そのような状況が二、三年程続いた時点で、ラツチフオード君夫妻が、自分達も「中論」を勉強したという申し出をしてきたので、当時私が住んでいた市川市のドーゲン・サンガで、道場に住んでいた斎藤泰純君等も参加して、研究会を始めた。しかしそれが数ヶ月続いた時点で、ラツチフオード君があまりにも難しいので、研究会を止めたいと云つて来たので,もともとラツチフオード君の希望で始めた会でもあつたから、私はまた元に戻つて独りで翻訳を続けた。
処がその年の夏に、ラツチフオード君からアメリカのプリンストン大学で、夏休みの二ヶ月間を利用して、サンスクリツトの夏期講座があるので、ウインドベル・パブリケイションズの費用で行かして欲しいという申し出があり、同君にはいろいろと忙しい思いをして貰つているので、心良く同意した。
しかしラツチフオード君はアメリカから帰つて来ると、一,二ヶ月の間に彼自身独自の翻訳を作り上げ、その出版を希望して来たので、その内容を読んで見たけれども、私自身が理解している処とは遥かに遠かつたので、私はその本に私の名前をのせることを拒否し、その翻訳はラツチフオード君自身の単独の名前で出版された。そしてその間、私は同君の人格について、私の立場からは多少の疑問を持つようになつた。
その後ウインドベル・パブリケイションズは何冊かの出版物を出し、そろそろ利益を生む段階に近ずいたかなと思われる時期になつた時点で、突然ラツチフオード君から、ウインドベル・パブリケイションズの仕事を止めたいという申し出があつたが、よく聞いてみると会社としての運営を止めて、ラツチフオード君個人で仕事として、主版の仕事を続けて行きたいという意向のようであつた。しかし私はそのことを認める意思がなかつた。そして問題の解決には、弁護士の参加を必要とすると考えたが、幸いドーゲン・サンガのメンバーの中に、ジェームス・コーエン君という法律の専門家がいたので、同君にお願いして比較的公平な解決が出来たと理解している。
その後、昨年の春であつたと記憶しているけれども、ラツチフオード君から「自分はドーゲン・サンガの中で、やや独立の立場を取りたい」という申し出があつた。しかし私はある団体の中で、誰かが独立の立場を取りたいと希望するならば、その団体から離れればよいだけのことであつて、一定の団体に帰属していながら、独立の立場を認めるということには、賛成でなかつた。したがつてラツチフオード君に対しても、ドーゲン・サンガの中に止まつて独立の立場を保つよりも、むしろドーゲン・サンガから独立して、独自の立場を得ることの方が望ましいと考えたので、同君にそのことを勧め、同君もそうすることを納得した。その後同君からもう一度ドーゲン・サンガに復帰したいという希望が寄せられ来たけれども、今の処、状況は変わつていない。

教えの純粋さ

私がドーゲン・サンガを後世に残そうとした唯一最大の目標は、釈尊の教えがどのような教えであるかという事を確定して、それを後世に残そうとする事であつた。私は満年齢で十六歳の頃から釈尊の教えに親しみ、自分が持つて居るものの殆ど全てを犠牲にして、釈尊の教えを学び、竜樹尊者が唱えられた実在論の佛道を知り、達磨大師の存在を通じて坐禅の修行の貴重さに気付き、道元禅師の優れた思想体系を学んで来たのであるが、何とかしてそのような極めて厳密な佛道の主張を正確に表現し、坐禅の修行を通じて、実践的な現実主義の教えを説く仏道を、後世に伝えたいと考えている。
しかもこの事は、単に日本一国だけの問題ではなく、何千年、何万年となく観念論と唯物論との相剋の中で、目覚ましい発展を遂げて来た人類の文化が、いよいよ観念論と唯物論との対立を乗り越えて、現実主義を基本原則とする文化に突入する為の画期的な転機に直面しているのであるから、そのような世界情勢の中で、人類全体の運命を決定する基本原則の転換を、何とか実現するための共同作業に参加して行きたいと考えている。
仏道の用語に「一器瀉水(いつき しゃすい)」という言葉がある。これは師匠の持つて居る佛道の全ての内容が、ちょうど一つのコツプの中の水に例えられており、師匠のコツプの中の水が、一滴残らず弟子のコツプの中に移されるように、仏道に関する師匠の教えが、完全に同じ形で弟子に引き継がれて行くことを意味している。仏道における真実は常にこのようなたつた一つの真実であり、そのたつた一つの真実が、一分一厘の狂いもなく、師匠から弟子に引き継がれることを意味している。
したがつてドーゲン・サンガにおいても、そのように厳密な伝承が要求されるのであつて、ドーゲン・サンガにおいても、あれも仏道、これも仏道というような安易な態度は許されない。

ドーゲン・サンガの思想的基礎

私は比較的若い時代から、沢木興道老師の教えを通じて坐禅の貴重さに目覚め、中村元先生の精緻な佛教学等を通じて、少しずつ佛道の本当の実体と理論とを勉強して来た者であるが、特に道元禅師の正法眼蔵や坐禅の修行を通じて、釈尊の教えに直接密着する修行を続けて来た。そしてここ二十年位の間は、インドにおいて二世紀から三世紀に活躍した竜樹尊者の書かれた「中論」に対して可成り重点的に取り組んで来た。そして非常に驚いた事には,私が「中論」のサンスクリツト原典に従い、梵英辞典とサンスクリツト文法とを頼りに、克明に解読して来た限りでは、竜樹尊者の思想は明らかに観念論と唯物論との実在性を否定し、われわれ人類が何千年,何万年という歳月を費やして築き上げて来た観念論と唯物論とを壊滅させない限り、此の世の中における真実の主張である実在論は登場する余地がない事を説いている。

しかしこのような主張は、欧米に於ける過去の哲学史を考えた場合、あまりにも唐突な議論のように思われる。何故かと云うと遠く古代ギリシャ・ローマ以前の哲学は兎も角として、古代ギリシャ・ローマ以降における哲学は、十九世紀の中頃までは殆ど全てが、観念論か唯物論かの対立である。したがつて「中論」において、竜樹尊者が観念論と唯物論とを共に否定しているという議論を聞くと,仮に観念論と唯物論とを共に排除した場合、哲学の世界に何が残るのかと云う疑問が湧く。また事実問題として、十九世紀の半ば頃から実存主義哲学が現れて来る以前においては、欧米の哲学から観念論と唯物論とを取り外した場合、欧米の哲学の中には,何も残らないと云えるように思われる。

そこで登場して来るのが、佛教哲学における四諦の教えの重要さである。釈尊は佛教哲学を掴まれてから、その最初の説法において、四諦の教えを説いておられるが、この四諦の教えの中に、欧米における観念論(苦諦)と唯物論(集諦)とを対比させた上で、行為の哲学(滅諦)と現実そのもの(道諦)を付加し、人類の哲学が、理知を中心にした欧米哲学における観念論と唯物論との対立を乗り越えて、行いの哲学、実在の哲学への道を開く根拠が含まれている。そして欧米において見事に発達した極めて貴重な観念論と唯物論との両思想体系を、釈尊の説かれた四諦論を活用する事に依り、極めて整備された二十一世紀以降の世界的な思想体系として、樹立する事が可能である。この四諦論の考え方を通じて、人類は極めて精緻な観念論と唯物論とを両足に踏まえながら、完全に一元化された人類最終の哲学である実在論を、楽しむ事の出来る時代を迎える事が出来,ドーゲン・サンガは正にそのように大きな歴史的な流れの中で、その使命を果たさなければならないと考えている。

そして問題をそのように世界史的な流れの中で考えた場合、忘れてはならない重要な事項がある。それは何かというと、坐禅である。何故かというと四諦の教えは、何らの行いなしに、観念論と唯物論とが行いの哲学あるいは実在論に転換出来る事を主張している訳ではなく、人類が観念論や唯物論の世界から抜け出して、行いの哲学、現実の哲学の世界に入つて行くためには、行いの実行が不可欠である。古来から仏道が、行いの実践、即ち修行を絶対の基準とする考え方は、其処から生まれて来るのであつて、そのことが坐禅の修行が無い限り、仏道はあり得ないという考え方に繋がつて行くのである。人間が観念論や唯物論から抜け出して、自分自身が実在の世界に生きていることを体験的に確認するためには、先ず自分自身が行動の世界に入り、自律神経をバランスさせる必要がある。坐禅の修行は,坐禅の最中に頭で問題を考えて、それが解るとか解らないとかという性格の修行ではなく,坐禅の修行は自分の坐つている時の姿勢を整えて、正しい姿勢に入る事である。そしてそれによつて、われわれの自律神経がバランスすることである。われわれは交感神経が副交感神経より強い場合には、観念論から抜け出すことが出来ない。しかしそれと反対に副交感神経が交感神経より強い場合は、唯物論から抜け出す事が出来ない。したがつてわれわれは坐禅その他の行いによつて、自律神経をバランスさせることを経験しなければ、人間として生きることが出来ない。では何として生きるかというと、交感神経が強い人は神様に近い状態で生きており、副交感神経の強い人は動物に近い状態で生きる。そして人間がそのように神様に近かつたり、動物に近かつたりしている状態は、決して本当の人間の生き方ではなく、人間は毎日の坐禅によつて、自律神経を絶えずバランスさせて生きる処に、本当の人間の幸せがあることを、釈尊はわれわれに教えられた。

ドーゲン・サンガにおける生活

そのように考えて来ると、勿論、生活環境に恵まれて、特別の金銭収入を必要としない人にとつてはともかく、普通の社会生活を送りながら、同時に佛道修行をしたいと考えている人々の数も、決して少なくないと思われるところから、そのような人々に対して満足を与えることの出来る佛教教団の必要も、今日のような資本主義経済社会の状況の中では必要であると考えられる。そのような意味で、ドーゲン・サンガは設立された。したがつてドーゲン・サンガの中には、私のように実際に曹洞宗の教団に僧侶として所属している人々も何人かいるけれども、大多数の人々は、既成の宗教団体に帰属せず、ドーゲン・サンガを拠り処として、仏道修行を続けている。特に昨年の十一月二十九日から、ドーゲン・サンガ・ブログを始めて以来、ドーゲン・サンガに帰属する人々の数は、予想をしない程増えて来たし、その在り方もたつた一人で毎日の坐禅を続けている人もいれば、家族で坐禅をしている人もおり,また従来と同じように、それぞれのグループの中で坐禅をする人々の数も増えて来ている処から、ドーゲン・サンガの規模がどのように拡大し、どのような方向に発展して行くかについては、今から想像することが難しい程である。幸いなことに英語のドーゲン・サンガ・ブログについては、その管理をブラツド・ワーナー君やケヴイン・ヴォルトリン君が引き受けて呉れることを約束して呉れているので、私の死後も心配はないと考えている。何れにしてもドーゲン・サンガのような佛教教団の試みは、世界における最初の試みであるから、それがどのような形で發展していくか、簡単に予測することが出来ず、現在そして将来、ドーゲン・サンガに帰属する人々の努力に掛かつて居る。したがつてそのような意味で、出来るだけ充分な準備をして置きたいと思う。

2006年8月22日火曜日

ドーゲン・サンガ(6)ドーゲン・サンガ ニシジマの場合

私は昨年の六月に腰椎の圧縮骨折を経験した後、市川市にあつたドーゲン・サンガの道場を閉鎖して、東京の高島平に移り、一切の公職から離れてたつた一人の個人生活を始めた。しかしドーゲン・サンガの生活は続いているので、その概要を述べて見たい。
(1)起床:起床時間は特に決めていない。前日早く寝たために、五時頃起きることもあれば、前日遅かつたためにゆつくりと寝て、七時頃起きることもある。
(2)マツサージ:老齢の結果、皮膚が荒れ易くなつたので、必要な箇所にオリーヴ油を塗る。その間、外国語練習のテープを聞く。
(3)洗面:洗面の時に、頭を電気カミソリで毎日剃る。洗面に関しては、道元禅師が正法眼蔵の中で詳しく指示しておられるから、出来るだけそのご趣旨に従う。しかし歯ブラシや歯磨きに関しては、もしも道元禅師がその存在を知られたら、非常に喜ばれたであろうと考えられるものも、現在では多い。
(4)外国語の練習:高島平に移つてからは、人と話をする機会が殆どなくなつたので、人からの声を聞く事が本能的に必要であると見えて、自動的に外国語の練習が始まつた。現在はテイーチ・ユアセルフという外国語の自習書を、毎朝二ページ宛読んでいる。自分の年齢から考え、到底ものになるとも思えないけれども、勉強する事自体が楽しい。現在はフランス語を手がけている。
(5)体操:高等学校時代に陸上競技の準備運動として始めた体操を、今でも続けている。腰椎を折つてからの回復にも、役立つて居るように思う。内容はラジオ体操に似た一連の体操の連続である。
(6)坐禅:坐禅を始める前に、お袈裟を畳んだ侭頭の上に載せ、お袈裟を礼拝する詩を唱える。正法眼蔵の中では、声を出さずに唱えることになつているが、私の場合、講義を止めてから、声を出す機会が非常に少なくなつたので、敢えて声を出して唱えることにしている。内容は、
大哉解脱服 (だいさい げだつふく)  無相福田衣 (むそう ふくでんえ)
披奉如来教 (ひぶ にょらいきょう)  広度諸衆生 (こうど しょしゅじょう)
意味は、「偉大なる哉、自由の服  定まつた姿を持たない幸いの服  自分は今その釈尊の教えを身に着けて 広く生きとし生けるものを救いたい。」という趣旨である。釈尊の教えは、単なる思想でもなければ、単に形式を真似する事ではなく,日常生活の中に於ける行為の実行が全てである。したがつてこのような詩句の唱和も、実際に実行して見る処に意味があるのであつて、想像しいる場合と実際に唱和することとの間には、極めて明白な次元の違いがある。
坐禅そのものに就いては既に述べたので、重ねて述べる事をしない。但し腰椎骨折後の回復に関しても、坐禅が威力を発揮しているように思う。
(7)血糖値の測定:糖尿病を予防するため、朝食前に血糖値を測る。
(8)朝食:予め発芽玄米を買い置き、電気炊飯器で炊く。副食は食品店で買い、野菜は自分で切る。食事を始める前に,五観の偈を大きな声を出して唱える。
五観の偈は
一つには功の多少を計り彼の来処を量る (ひとつには こう の たしょう を はかり かの らいしょ を はかる)
(意味)自分がどの程度の仕事をしたかを考え、食物が調達される迄に人々が費やした労力を考える。
二つには己れが徳行の全缺を忖つて供に應ず (ふたつには おのれが とくぎょう の ぜんけつ を はかつて く に おうず)
(意味)自分の道徳的な行いが全く欠けていること考えながら、お食事を頂く。
三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす (みつには しん を ふせぎ とが を はなるる こと は とん とう を しゅう とす)
(意味)頭で問題を考え過ぎることを避け、間違いを遠ざける為には、欲張り、腹立ち、愚痴を防ぐことが、第一である。
四つには正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり (よつには まさに りょうやく を こと と する は ぎょうこ を りょうぜん が ため なり)
(意味)身体に最もよい薬であるお食事を頂くことは、身体が痩せ細ることを、防ぐ為である。
五つには成道の為の故に今此の食を受く (いつつには じょうどう の ため の ゆえ に いま この じき をうく)
(意味)仏道修行の目的を達成する為だけの目的で、今このお食事を頂く。
(9)ブログの作成:先ず日本語のブログを作成し、次いで略同じ内容の英文によるブログを作成する。ブログのアドレスは日本文の場合、http://gudoblog-j.blogspot.com/ であり、
英文の場合、http://gudoblog-e.blogspot.com/ である。
(10)イーメイルの受発信:必要なイーメイルの受発信を行う。
(11)歩行:運動不足を補うため、三キロ程度の距離を毎日歩く。
(12)夕食:健康保持の為一日二食としているが、内容は殆ど朝食と同じである。
(13)読書:夕刊を読んだ後、時間があれば読書をする。
(14)入浴:毎週月曜日と金曜日とにヘルパーが来て、掃除、洗濯、食器洗い等をして、同時に入浴の準備をするので、その時に入浴する。
(15)就寝:その日における仕事の大小に従い、大体九時から十一時半位の間が多い。

2006年8月20日日曜日

ドーゲン・サンガ(5)ドーゲン・サンガの変貌

変貌の概要

(1)情報技術の進歩

私がドーゲン・サンガ ブログを始めたのは、昨年の十一月二十九日であつたから、既に九ヶ月程の歳月が流れているのであるが,その間に気の付かない形で、大きな変化が起こつていたように思う。何故かと云うと、それまでドーゲン・サンガは少数の限られた人数の人々が一箇所に集まり、坐禅をしたり佛教の講義をしたりしていたのであるが、ブログという非常に進歩した情報技術を使う事によつて、情報の内容と範囲が予想もしないような広さに広がつた。これまでは限られた人数の人々が一箇所に集まり、坐禅をし佛教の講義を聴くという会合が行われていたのであるが、現在ではブログを使うことにより、世界中の全ての人々が、仮令どのような地域に住んでいようとも、本人にブログを読もうという意思が有り、聞くだけの技術的な知識があれば、その人が世界の何処に住んでいる場合でも、文字によつて表現された情報を即座に読む事が出来る。現に私のブログに関しても、ブラジルの未開地の中で全く孤独の生活をしている人でありながら、ドーゲン・サンガ ブログを英語ではあるけれども、読んで呉れている人がいる。

(2)文字化された情報

また情報の内容に関しても,その内容が文字化されているという事実の、意味も大きい。これが仮に単に音声だけの情報であるとするならば、思想の伝達に関しても、かなり不正確な内容の情報を伝達するという制約を避ける事が出来ないのであるが、幸いにしてブログの場合には、文字化された情報が伝達できるのであるから、佛教思想の普及に関しても、革命的な変化が既に導入されたと見る事が出来る。

(3)普及の範囲が無制限

またブログの普及範囲には、何らの制限を設ける必要もなく、情報を流す側で特別の制限を設けない限り、情報は自動的に世界全体に広がつている。このように広範囲の形で、情報を世界全域に対して流布できる手段は、今日までは考える事の出来ない状況であつたが、現にその事が可能になつた今日の状況を考えて見ると、このような事態が既に可能となつている以上、人類の文化の中に、今日までの文化の中では到底予測することの出来なかつた文化の出現を予測することが、不可欠のように思われる。

(4)個人的なドーゲン・サンガの出現

ドーゲン・サンガの運営に関しても、今後個人単位のドーゲン・サンガも具体的に登場せざるを得ない事態が、当然起こり得ると考えている。現に私自身が一昨々年家内を失い、現在では東京都の一角で完全に孤独な生活を楽しんでいるのであるが、そのような形のドーゲン・サンガが、今後加速度的に増加する可能性も考えられる処から,ここでドーゲン・サンガの構成が大きく変化し、人類の歴史の中では今日まで予測することの出来なかつたような宗教団体の出現も、覚悟しなければならないのではないかと考えている。

2006年8月9日水曜日

ドーゲン・サンガ(4)二人の師匠

二人の師匠

私には貴重な師匠が二人いる。一人は昭和十五年の十月に開設された天曉禅苑の接心で、始めてご提唱を聞く事の出来た沢木興道老師であり、他の一人は、沢木老師が遷化された後に、本師となつて頂いた丹羽廉芳禅師である。

沢木興道老師

昭和十五年の十月に沢木興道老師が、栃木県の大中寺において、一週間程度の接心をされるという情報を得て、当時日本の食糧事情がかなり悪くなつていたので、米を持参で参加した。朝は三時起床で、四十五分ずつの坐禅が、朝二回、午前二回、午後二回、夜一回という坐禅が行われたと記憶している。そして午前と午後との二回、沢木老師のご提唱があつたが、その仏道講話には、非常な感動を覚えた。
講本は道元禅師が中国から帰国され、最初にお書きになつた普勧坐禅儀であつたが、その解説の的確さと正確さに就いては、即座に脱帽した。特に奈良朝時代に東大寺等を中心にして行われた法相宗の哲学を明確に理解しておられ、われわれの日常生活における実例を取り上げながら、非常に水準の高い講義をされた。

しかしながら、沢木老師の本当の素晴らしさは、沢木老師が持つておられた仏道に対する純粋な探究の態度であつたと思う。正法眼蔵の重雲堂式の巻に、「道心ありて名利をなげすてんひと,いるべし。いたつ”らに、まことなからんもの、いるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし、童心ひそかにおこれば、名利たちどころに解脱するものなり。」とある。その意味は、「真実を知りたいという志を持つていて、名誉や利得を投げ捨ててしまうような人が、入ることができる。仮にも真心のないものは、入つてはいけない。仮に間違つて入つてしまつた場合でも、検討した上で追い出すべきである」と云われているのである。そして沢木老師は、仏道修行が名誉の追求でもなければ、利得の追求でもない事を、腹の底から知つておられた。したがつて老師の日常生活における態度は、純粋そのものであつた。私自身も、もしも沢木老師にお会いする機会がなかつたならば、私自身が佛道を知る事も、一生有り得なかつたであろうと思われる。沢木老師の仏道は、それほど純粋であり、しかも理論的にそれ程筋の通つた思想体系であつた。第二次世界大戦後に、アメリカの著作家でヴィクトリヤという人が、沢木老師も含めて日本の佛教僧が、第二次世界大戦に協力的であり過ぎたという趣旨の本を書いているが、これは現実の歴史の中で、戦争に参加した国の国民が如何にその態度に苦しむかという実情を、知らない人物の観念論的な著作であつて、あまり問題にする意味を持つていないと見ている。

丹羽廉芳禅師

佛道を勉強するに当つて非常に大きな恩恵を受けた他のもう一人の師匠が、後に永平寺の管長さんに成られた丹羽廉芳禅師である。私は十六歳の頃から、道元禅師の思想、特に正法眼蔵に非常に強い関心を持ち、暇ある毎にそれを読むという生活を続けて来たのであるが、やがて「現代語訳正法眼蔵」を執筆し始め、それが完成すると、昭和四十五年の十一月に第一巻を出版し始めた。そして昭和四十六年の五月頃から、当時東京帝国大学の佛教青年会理事長をしておられた平川彰先生にお願いして、同佛教青年会で正法眼蔵の講義を始めさせて頂いた。そしてその時点で、自分も仏道の講義をさせて頂く以上、正式の僧侶になるべきであると考えたが、当時既に沢木興道老師は他界しておられた。そこで何らかの伝手を求めて、私を弟子として受け入れて頂ける師匠を求めたのであるが、幸いにして官立静岡高等学校の卒業生名簿の中に、当時永平寺の監院老師として西麻布の永平寺別院におられた丹羽老師のお名前を発見した。
そこで早速西麻布の永平寺別院に丹羽老師をお訪ねして、弟子にして頂きたい旨を申し上げた処、丹羽老師は私の出家を即座にお許し下さつた。そしてその際にはらはらと涙を流されたが、今から考えて見ると、同じ静岡高等学校の十四年後の後輩が、佛教僧になることを喜んで下さつたとも考えられる。私は当時既に日本証券金融という会社で役職者の地位に居たので、僧侶としての修行に関しても、特別に優遇の措置を受ける事が出来たように思う。
丹羽老師の弟子になつてからは、永平寺の別院においても、坐禅の指導と正法眼蔵の講義を、一般の人々に対して行うようになつた。開催日が木曜日であつた処から、私は午後の仕事を早めに切り上げて、指導の為に駆けつけるということを、毎週繰り返していた。その際私は僧侶の服装に着替える時間がなかつた処から、背広姿の上着を脱ぎ、ワイシャツの上にお袈裟を掛けて坐禅をし、講義をしていた。処が永平寺別院の修行僧達が相談して、寺院内の僧侶として如何にも服装が整わないので、止めさせて欲しいということを、丹羽老師に対して御願いした。その時に丹羽老師から、「インド・スタイルで、いいではないか」というご意見を頂く事が出来たので、ワイシャツ姿で正法眼蔵の講義を続ける事が許されたというようなこともあつた。
その後、私の講義を聞いておられる人々の為に、永平寺別院においても、毎年八月の末に、三泊四日の坐禅会を行うようになり、それがやがて丹羽老師の自房である静岡の洞慶院においても行われるようになると共に、同じような坐禅会が、日本に滞在している外国人の為に、英語を使つて開催されるようにもなつた。また株式会社井田両国堂さんの従業員のために、年四回に亘つて坐禅会が実施されるようになり、いずれの会合もそのが数十年続く結果となつた。
丹羽老師は後に永平寺の管長さんになられたので、ここからは禅師の肩書きを使わして頂くと、丹羽禅師は、明治三十八年二月に、今日の静岡県の修善寺町で、塩谷加藤太氏の三男として誕生された。父は小学校の校長職を何校か経験された教育者であり、母は農業によつて家計を支える努力をされた。禅師は男女十人の兄弟の中の一人であつたが、ご自分を懐古されて女の子と遊ぶ事を好む、大人しい性格であつたと述べておられる。しかし修善寺に通う僧侶の姿に憧れて、僧侶になる希望を持ち、十一歳の時に僧侶になる希望を述べ、叔父に当る丹羽佛庵老師が、洞慶院の住職をされていた処から、佛庵老師の養子となり、小学校は洞慶院から通う結果となつた。中学は韮山中学を選ばれたが、高等学校は官立静岡高校に入学されたので、再び洞慶院から通学する結果となつた。
大学に入学する際に、佛庵老師から法学部に入ることを希望されたけれども、「自分は仏道一筋の生涯を送りたいので、印度哲学科に入学したい」という希望を述べ、許されたと話しておられた。佛庵老師としては、宗門の中でもいろいろと法律知識を必要とする事務があつた処から、そのような希望を持たれたものであろう。
東京帝国大学、印度哲学科一年の夏休みに、正式に修行僧の支度を整えて、永平寺に上山された。次いで大学卒業後、洞慶院において監司をされたが、京都の紫竹林、安泰寺に滞在され、大谷大学において浄土真宗の教えを一年間勉強された上、昭和七年十月に永平寺に上山、その後静岡の一乗寺、龍雲院を経て、昭和三十年十一月、洞慶院を継がれた。次いで昭和三十五年六月、永平寺東京別院の監院となられ、昭和六十年四月から平成五年の九月まで、大本山永平寺七十七世の貫主として仏道の普及に努力された。

丹羽禅師からは、仏道が人間の生き方の基本である事を教えられた。極めて温厚な方であり、感情的になる機会を持つ事が全くない性格の方であつた。ある夜、永平寺別院の若い修行僧達が,徹夜で酒を呑み明け方寺院に帰つて来たことがあつたが、禅師が早朝、寺の玄関に立つていて、「寝ずのお勤めご苦労さん」と云われてその侭自室に帰られたため、逆に修行僧が恐縮してその後、そのような事がなくなつたという話を聞いたことがある。
私などがたまたまご自室にご挨拶に伺うようなことがあると、ご自分でお茶を立てて下さることがあつたが、言葉ではなく動作によつて、いろいろと教えて頂くことが多かつた。
先代の秦慧玉禅師がいよいよ御危篤に成られた段階の時に、私は丹羽禅師のお部屋にお邪魔していた。その時、丹羽禅師は秦禅師の側近の方にご容態を聞いてお見舞いに伺う事を相談しておられたが、ご返事は「非常にお元気になられて、今リハビリの最中ですから、お見舞いには及びません」というご返事のようであつた。しかし丹羽禅師は,「今その病室にいる人から直接情報が入つているにも拘らず、リハビリでもないのだがなあ、」と不審の様子をしておられたが、私はその情景を拝見しながら、人間はどんな時にも嘘は付けないものであると痛感した記憶がある。それと同時に、人間社会の高位に上られる方は、情報を非常に大切にされているものであると云う事実を,非常に強く感じた。

2006年8月5日土曜日

ドーゲン・サンガ(3)父親の特殊訓練

父親の特殊訓練

私があまり宗教的でもない家庭に育ちながら、16歳の頃から強く佛教思想に引かれるようになつた原因を考えて見ると、その一つの大きな原因は、私が幼少の頃に父親から受けた、駆け足に関する特殊教育があつたように思う。私は6、7歳に成る頃までは、決して体力的に強い子供ではなかつた。身体も普通よりは小さく、それに伴つて気も弱かつた。毎年行われる小学校の運動会においても、必ず最下位の方を走つていた。
父親は私のその状態を心配したものと思う。その後夕食が終わると、父親は私を必ず散歩に連れ出すようになつた。そして道路の脇に立ち並んでいる電信柱の、何本か先の柱を指さして、「あの柱まで走つて行つて、また走つて帰つて来い」と命令した。私はそんな動作に、一体何の意味があるのかは皆目解らなかつたけれども、父親の喜ぶことであれば、反対することもないと考えて、云われる通りに従つていた。しかし何時の間にか走る距離が長くなり、それと同時に走る時間も何時の間にか、夕方から朝に変わつていた。距離が長くなつて見ると、父親は、私がかなり長い時間を走つて帰えつて来た訳であるが、その間私が走り出した地点に立つて、私を待つていて呉れる事が続いた。時間としても可成り長かつたし、冬の寒い季節には、走つて居る私よりも待つて呉れている父の方が、余程大変であつたと思う。しかし雨の降らない限り、そのような努力が一年中一日も休まず続けられた。
ところがそのような生活を毎日繰り返していると、私自身の方に奇妙な変化が、次々に現れて来るようになつた。一年生から三年生までは毎年最下位であつた運動会の成績も、四年生から六年生までは毎年一等を取るようになつたし、ものの考え方が、子供らしく感情的に喜んだり悲しんだりするのではなく、目の前の事実を眺めながら、全ての物事に付いて大人のような判断をするようになつた。つまり子供らしい処が無くなり、未熟な大人としての生き方が、何時の間にか身に付いてしまつたような印象を持つようになつた。そしてそのことは自分にとつて、決して幸せなこととは受け取る事が出来なかつた。ある寒い冬の朝、小学校の校庭で自分の手が、意外に火照つていることに気が付いたが、その理由が解らなかつたため、不思議に思つてそつと自分の手を、校庭にあつた水槽の冷たい水に浸けて見たことがある。今から考えて見れば、朝食の前に子供として分不相応な長い距離を走つていたのであるから、血液の循環がよくなつており、何の不思議もない事柄ではあつたけれども、自分としてはどうも普通ではないのではないかと感じて、悩んだことがある。

規則正しい生活の反動

13歳位になつた時から、少し大人になつて町中を走ることが多少恥ずかしくなつたので、父の意向に逆らつて、朝走ることを止めてしまつた。ところが気が付かない内に生活の変調が現れ、それまで想像以上に整つていた自分の私生活が、何時の間にか崩れ始めた。折から思春期特有の肉体的な悩みも加わつて、私の私生活は想像も付かない程の混乱状態に落入り、私は絶えず町中を彷徨い歩くような状態に落ち込んだ。その間における多少のプラスといえば、当時今日の百万分の一程度の価格に落ち込んでいた日本文学や仏、独、露の外国文学に関する翻訳の古本を手当たり次第に読む事が出来た事であつて、そのことによつて得られた私の思想遍歴は、何が真実かを追求する上で、非常に大きな役割を果たしたように思う。
そのような思春期の混乱状態を救つたものは、目前に迫つて来た高等学校の入学試験であつた。私の青春彷徨も次第に収まつて、不思議なことに何時の間にか、勉強の合間に再び町中を走り廻つて、勉強の効率を高めるという習慣も始まつた。その当時、全国には政府直属の高等学校が、四十数校あつたように記憶しているが、私はその中から静岡高等学校を選んだ。聞く処によると、私の入学試験における成績は、文科系のトツプであつたとのことである。

高等学校における運動部生活

入学試験の直後、運動部からの入部勧誘があつた時、私は自発的に陸上競技部を選んだ。中学時代に柔道も初段を取つて居たから、柔道部からの勧誘もあつたけれども、自分としては子供の時から走つていた経験も手伝つて、どうしても陸上競技をやつて見たかつた。
自分の身体は必ずしも、陸上競技に向いているとは云えなかつたかも知れないが、兎に角激しい練習を繰り返せば、何とかなるであろうと考え、練習に次ぐ練習を繰り返した。素質に恵まれていない自分としては、それ以外に頼る道がなかつた。高等学校の二年頃からは、朝食前にも練習するというような努力もして見たが、結果は必ずしも満足出来るものにはならなかつた。ただひた向きな練習量としては、人間の限界に挑戦することを主眼とした。したがつて今から考えてみると、結果の善し悪しよりも、宗教的な切実さで努力の限界に挑戦するという性格があつたのかも知れない。兎に角三年間の無謀な努力が終わつた。そしてそこに残つたものは、人間があらゆる妥協を乗り越えて、純粋に一つの修行に全身全霊を傾けた場合、そこに生まれて来る極めて純粋な言葉で表現する事の出来ない世界は、一体何なのかという疑問が残り、われわれが求めている真実とは、そのように真剣な行いそのものから生まれて来る事実なのかも知れないと考えるようになつた。そして人類の長い歴史の中には、殆ど無数と云つてもよい哲学や宗教があるのであるから、その多数の哲学や宗教の中には、われわれが運動競技を真剣に実行する処から生まれて来る哲学についても、それに該当する哲学なり宗教なりがある筈であるから、何とかその教えを勉強して見たいという気持ちが、非常に強くなつた。