2006年9月29日金曜日

学道用心集(2)第一 菩提心を発(おこ)すべき事。

この学道用心集に関する原文は、ドーゲン・サンガ・京都の海老沢満男さんがインターネツト上で発見されたものを使わせて頂いており、その文章の表現では、文章毎に別行となつていて大変読み易く感じたので、その方法を踏襲する事とした。なお(株)金沢文庫刊の拙著学道用心集講話の原文と相違する点については、同文庫本を基準として出来るだけ訂正した。

(本文)

第一 菩提心を発(おこ)すべき事。

右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名(付)くと。
然(しか)れば乃(すなわ)ち暫くこの心に依つて、菩提心と為すべきものか。
誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。
身命の牢(かた)からざることを顧眄(こべん)す、所以に精進は翹足(ぎょうそく)に慣(ら)う。
縦(たと)ひ緊那迦陵(きんなかりよう)讃歎(さんだん)の音声(おんじょう)を聞くも、夕べの風耳を払う。縦(たと)ひ毛牆西施美妙の容顔を見るも、朝(あした)の露(つゆ)眼(まなこ)を遮(さえ)ぎる。
已(すで)に声色(しょうしき)の繋縛(けばく)を離るれば、自ずから道心の理致に合(かな)わんか。往古来今、或は寡聞(かもん)の士(し)を聞き。或は少見の人を見るに、多くは名利の坑(きょう)に堕(だ)して永く仏道の命(みょう)を失す。
哀(かな)しむべし惜しむべし、知らずんばある可からず。
縦ひ権実(ごんじつ)の妙典を読むことあり、縦ひ顕密の教籍(きょうじゃく)を伝うること有るも、未だ名利を抛(なげう)たずんば、未だ発心(ほつしん)と称せず。
有(ある)が云(わ)く、菩提心とは、無常正等覚心なり、名聞利養に拘わる可からず、有が云く、一念三千の觀解なり、有が云く、一念不生の法門なり、有が云く、入仏界の心なりと。
是(かく)の如(ごと)くの輩(ともがら)は、未だ菩提心を知らず、猥(みだ)りに菩提心を謗(ぼう)す。仏道の中に於いて遠くして遠し。
試(こころ)みに吾我(ごが)名利の当心を顧(かえり)みよ、一念三千の性相(しようそう)を融(ゆう)ずるや否や、一念不生の法門を證するや否や、唯だ、貪名(とんみょう)愛利の妄念(もうねん)のみ有りて、更に菩提道心の取る可き無きをや。
古来得道得法の聖人(しょうにん)、同塵の方便(ほうべん)有りと雖(いえ)ども、未だ名利の邪念有らず。法執すら尚(なお)なし、況(いわん)や世執(せしゅう)をや。
所謂(いわゆる)菩提心とは、前来云ふ所の無常を觀ずるの心、便(すなわ)ち是れ其の一なり、全く狂者の指(ゆび)さす所に非ず。
彼の不生の念、三千の相は発心以後の妙行(みょうぎょう)なり、猥(みだ)るべ可らざるか。
唯だ暫く吾我を忘れて潜(ひそ)かに修(しゅ)す、乃(すなわ)ち菩提心の親(した)しきなり。
所以(ゆえ)に六十二見(けん)は、我(が)を以て本(もと)と為すなり。
若し我見(がけん)を起こすの時は、靜坐(じょうざ)観察せよ。
今我が身体内外(ないげ)の所有(しよ・う)、何を以つてか本(もと)と為(せ)んや。
身体髪膚は父母に稟(う)く、赤白(しゃくびゃく)の二滴は、始終(しじゅう)是(こ)れ空(くう)なり、所以(ゆえ)に我(が)に非ず。
心意識智、寿命を繋(つな)ぐ、出入の一息、畢竟(ひつきょう)如何(いかん)。所以に我に非ず。彼此(ひし)執(と)るべき無きをや。
迷う者は之を執(と)り、悟る者は之れを離る。
而(しか)るに無我の我を計(けい)し、不生の生を執(しゆう)し、仏道の行ずべきを行ぜず、世情(せじょう)の断ず可きを断ぜず、実法(じつぽう)を厭(いと)い妄法(もうほう)を求む。
豈(あに)錯(あやま)らざらんや。

(現代語訳)

表題として掲げた菩提心、すなわち真実を知りたいという気持ちは、沢山の呼び方があるけれども、最終的には、菩提心という一つの言葉に帰着する。
竜樹尊者が云われた。一般社会が生まれたり消えたりして、絶えず変動する世界であることを、直観的に知ることの出来る心も、菩提心と呼ぶ事が出来ると。
したがつて取りあえず,そのような心を拠り処として、菩提心と考えるべきであろうか。
実際問題として、われわれが此の世の中を、現在の瞬間の移り変わりとして、直観的に捉える場合には、自分自身という考えが生まれて来ないから、名誉や利得を求める心が生まれて来ず、ただ時間の流れの非常に速いことだけを恐れる気持ちが湧く。
したがつて道義の実践が、頭の髪の毛が燃えているのを、大急ぎで消すような真剣さで行われる。
われわれの身体や命が、あまり堅牢でない事を反省する。したがつてわれわれの努力は、何時も爪先立ちで歩かれたとされている釈尊をお手本として行われる。
仮に明け方には、緊那迦陵(きんなかりよう)と呼ばれるような鳥の、惚れ惚れとする美しい鳴き声を聞いたとしても、夕方の風に誘われてわれわれの命が散つて行くならば、われわれはその美しい歌声を聞く事が出来ない。
たとえ毛牆西施と呼ばれるような、途轍もなく美しい顔形の女性に出合つたとしても、もしも翌朝に自分が命を失えば、その美しい姿を自分の眼では、見る事が出来なくなつてしまう。
このように考えて来ると、耳に聞こえた美しい音色や、眼に見えた美しい色彩の束縛から、離れることが出来た場合には、自然に真実を知りたいという気持ちや様子に、合致することが出来るのかも知れない。
昔から今日に到るまで、ある場合には知識の不足している人の話を聞き、ある場合にはものの見方の充分でない人の様子を見ると、たいていの場合、名誉や利得の落とし穴に落ち込んでしまつて、釈尊が説かれた真実の生命を、永遠に見失つてしまつている。気の毒なことであり、惜しいことである。このような事情に気の付かないことがあつてはならない。
仮に架空の物語や現実の教えを説いた素晴らしい経典を読む事があり、現実として眼に見える教えや、眼には見えない隠された教えの書かれた書物を、伝えられる事があつたとしても、名誉や利得を完全に捨て去るのでなければ、まだ真実を知りたいという気持ちを、起こした事にはならない。
ある人は云う、真実を求める心とは、最高で正しく均衡の取れた自覚である。したがつて名声や利益による潤いとは、無関係であると。ある人は云う、一瞬の内に現れて来る三千とも云われている無数の直観であり、理解であると。ある人は云う、現在の瞬間においては何も現れて来る事の無い宇宙に入つて行く入り口であると。ある人は云う、真実の世界に入つて行く心であると。
このような人々は、まだ本当の意味での真実を知りたいという気持ちが分かつておらず、何の根拠も無しに、菩提心を誹謗している。仏道の世界においては、この上なく遠いと云う事が出来る。
試しに現在の瞬間における自分自身や、名誉や利得に対する自分自身の心を、反省して見るとよい。本当に現在の瞬間において、三千とも云われている無数の直観と融合しているかどうか。現在の瞬間において何も現れて来る事の無い宇宙に入つて行く入り口を、実際に体験しているのかどうか。唯実際に観察して見ると、名誉を貪り利益を愛する盲目的な意図ばかりがあつて、菩提心と認める事の出来るようなものが、全く見当たらない。
昔から、真実を得、宇宙の原則を得た優れた人々にも、他の人と出来るだけ同じ態度を取るという、便法はあつたけれども、名誉や利得に対して間違つた意欲を持つていた人は、未だ嘗て無かつた。
それらの人々は,宇宙の原則に対する執着さえ無かつた。況して世俗の世界に対する執着など、ある筈がない。
菩提心と呼ばれる、真実を知りたいと云う気持ちとは,先ほども述べたように、現在の瞬間が絶えず移り変わつて行くという事実を、直観的に捉えることも、正にその一つであると云える。気持ちの正しい状態に無い人が、指摘するような内容とは全く別である。先に述べたように、一切のものが新しく生まれて来る訳ではないとか、一切のものが、三千という表現で語られている無数の姿を持つていると云うような様子は、真実を知りたいという心を起こした後に現れて来る優れた行いを云うのであつて、混同してはならない事柄である。
唯取りあえず自分自身を忘れて、他人からは知られないような形で修行する時に、菩提心は身近に感じられるものである。
したがつて仏道とは違う見方として、六十二種類の佛教とは違うものの見方が説かれているけれども、それらは何れも自分を固執する立場から生まれている。
もしも自分自身を中心にした考え方が生まれて来る時には、静かに坐禅をして、実体を直観的に捉えるべきである。
現に今自分が持つている身体の内外は、一体何が基本となつているであろうか。身体や髪の毛や皮膚は,父母から受け継いでおり、精子を表わす白い滴も、卵球を表わす赤い滴も、本来何もなかつた処から生まれている。したがつてそれらは、本来自分自身ではない。心や意図や意識や知識の働きに依つて、生命が継続されて居る。空気が鼻から出たり入つたりしているけれども、結局一体それは何なのであろう。所詮自分自身でないことは、はつきりしている。自分自身の心も自分自身の身体も、執着の対照にならないことが、はつきりしている。
本当の事が分かつて居ない人々は、心や身体に執着するけれども、本当の事が分かつている人は、心や身体の問題から離れる。
しかし人々は、有りもしない自分自身のことをあると考え,生まれて来ないものを生まれて来ると考え、実行しなければならない釈尊の教えを実行せず、断ち切らなければならない世間の実情を断ち切る事をせず、真実の教えを嫌い、真実でない教えを欲しがる。そのような態度を、どうして間違つていないと云うことが出来よう。