ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2006年11月24日金曜日

学道用心集(11) 第十 直下承当の事

右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。
聞法は心識を遊化(ゆげ)し、坐禅は行證を左右にす。
是を以て佛道に入るに、尚ほ一を捨てて承当(じょうとう)すべからず。
夫、人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり。
勇猛と昧劣となり。
也たは動、也たは容、此の身心を以て、直に佛を證す、是れ承当なり。
所謂従来の身心を回転せず、但だ他の證に随い去るを、直下(じきげ)と名ずくるなり、承当と名
ずくるなり。
唯だ他に随い去る、所以(ゆえ)に旧見に非ざるなり。
唯だ承当し去る、所以に新巣に非ざるなり。

(現代語訳)

第十 現在の瞬間において、直接真実と出会う事

上記表題の意味は、身体や心を安定させて好ましいものを選ぶに当つては、自然に二種類の方法がある。それは師匠に弟子入りして釈尊の教えを聞く事と、坐禅の修行に努力する事とである。
釈尊の教えを聞く事によつて、心や心の状態を解放し変化させ、坐禅をする事によつて、行いや体験を自由自在に変化させる。
此のような方法で、釈尊の教えの中に入つて行くのであるが、其の場合、二つある内の一つを捨てた場合には、実体がどういうものであるかを掴むことが出来ない。
人間は元来皆、身体と心とを持つているけれども、動作には必ず強い弱いの違いがあり、それは勇敢であつて強い場合と、様子が分からず劣つている場合とである。
ある場合には動揺しており,ある場合にはゆつたりとしている。
そのような身体と心とを使つて、直接仏の状態を体験する事、それが直接真実と出会うと云う言葉の意味である。
従来自分が持つていた身体や心というものを、特別に変化させる事無く、客観世界の体験に完全に付き従つて行くことを、現在の瞬間と呼ぶのであり、現実に直接出会うと呼ぶのである。
唯、周囲の環境に完全に付き従つて行く事であるから、古い考え方に固執する事ではない。
唯、直接現実に完全に出会うことであるから、殊更に新しい環境に住まうことでもない。

(解説)

現在の瞬間において、直接真実に出会うという事は、所謂「さとり」の事を指している。そして所謂「さとり」を得るためには、二種類の努力を必要とする事が述べられている。一つは仏道の師匠について、仏道を勉強する事であり、他の一つは坐禅の修行をする事であり、その二つの内のどちらかが欠けている場合には、「さとり」は絶対に得られないことが述べられている。
そして人間は誰でも身体と心とを持つているけれども、身体の働きや心の働きには強弱の違いがある。しかしそのような個人的な違いを乗り越えて、自律神経をバランスさせ、直接真実を得た人と同じ境地を体験することが、目標を射る事であり、「さとり」である。
別の言葉で云えば、従来自分自身が持つて居た身体や心を特別に変化させる事ではなく、客観世界の体験に完全に付き従つて行く事であり、現実そのものと直接に出会う事である。
したがつてそれは、古い環境に固執する事ではないし、新しい環境の中に住む事でもなく、現在の瞬間において、最も現実的な行動を取る事である。

2006年11月20日月曜日

学道用心集(10)第九 道(どう)に向って修行すべき事

右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。
夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。
其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。
佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。
其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。
所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。
佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。
道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。
是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。
是れ則ち道に向うの風流なり。
而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強(し)いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。
錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。
父を捨(す)て逃逝(とうぜい)し、宝を捨(す)てて令并(れいへい)す。
長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。
夫(そ)れ、學道の者は、道(どう)に礙(さ)えらるることを求む。
道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。
佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。
佛道を信ずる者は、須(すべか)らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑(めいわく)せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減(ぞうげん)なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。
是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。
其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断(ざだん)して、知解(ちげ)の路(みち)に向(むか)わざらしむるなり。
是れ乃ち初心(しょしん)を誘引(ゆういん)するの方便(ほうべん)なり。
其の後(のち)、身心を脱落(だつらく)し、迷悟を放下(ほうげ)す、第二の様子なり。
大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。
若し正(まさ)しく道に在りと信ぜば、自然(じねん)に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。
人試みに意根(いこん)を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。

(現代語訳)

上記の表題の意味は、仏道を勉強している一人前の人物は、先ず第一に真実に向つている自分の態度が、正しいか正しくないかという事を知る必要がある。
一般的に云つて、自分自身を自由自在に管理することの出来るようになつた釈尊は、それ以前に菩提樹の下で坐禅をされ、明けの明星が東の空に輝いているのを見る機会を持つた時に、思いがけなく急にこの世における最高の真実を実観された。
その時に実観された真実の内容は、理論的に佛教を勉強している僧侶や、環境を大切にして佛教を勉強をしている僧侶達が達成できる内容とは、全く違つている。
そして真実を自分自身で実観することの出来た人々が、真実を得た人々に伝えて、今迄途絶える事の無かつたものである。
したがつて、その実観を得た人は、どうして真実を得た人でないという事が云えよう。
此処で云つている、真実に向かうということの意味は,釈尊が説かれた教えを完全に角の角迄知り尽くす事であり、釈尊が説かれた教え全体の様子を、はつきりと理解することである。
釈尊が説かれた教えの実体は,人々それぞれの足の踵の下にある大地に根ざしている。真実そのものに自己拘束されて,自分自身の現在地点において、明瞭に理解出来る処であり、真実を知つたという事実そのものに支えられて、本人自身が完成されているのである。
此のような事情から,仮に完成された形での理解を誇示している場合でも、多少何か欠けた真実の把握に落ち着いたように見える事情があるのであろうか。これが正に真実に近ずく優雅な態度である。
しかし現代においては、真実を勉強している人々が、まだ真実が分かつた分かつていないの区別もはつきりしていない為に、無理にその結果が眼に見えて来ることを好む。誰がこの誤りを犯していないであろうか。
父を捨てて自分の国から逃げ、本当に価値のあるものを捨てて、自分の国以外の土地を彷徨つている。自分自身が大金持ちの独りつ子であるにも拘らず、長い期間に亘つて外国人として、賎しい階級に属している。しかしそれには正に当然の理由がある。
一般的に云つて、真実を勉強する人々は、真実によつて自己拘束されることを求めており、真実によつて自己拘束されるということは、真実を把握した後に、真実を把握したという事実を忘れてしまう事である。
仏道の修行をしようとする人は、先ず最初に仏道を信ずる必要がある。
仏道を信ずる人は、先ず自分自身が本来真実の中に居て、迷つても居なければ、間違つた考えも持つていない、正邪が反対になつて居る事も無ければ、過不足も無く、過失や誤りもないということを信じるべきである。
このような信念を持ち、このような真実を明瞭に理解し、それらの基準に従つてこれを実行する。それが正に真実を勉強する為の基本である。
そしてその実行方法の基準は、意識の基礎的な働きをバランスした状況に依つて一時中断し、われわれの心や身体の働きが、知覚や思考の領域に入つて行かないようにする事である。これが正に初心者を誘導する場合のやり方である。
其の後で,身体や心に関する意識から抜け出し、迷いも悟りも投げ捨ててしまうことが、二番目の様子である。
しかし一般的に云つて、自分自身が本来、釈尊の教えの真唯中に居るのであるという事を、信じて居る人を見付けることが一番難しいのである。
もしも誰かが、自分は正に現実の中に生きて居るのであるという事実を、信じる事が出来るようになると、偉大な真実の中を自由自在に行き来する事が自然に出来るようになり、迷いや悟りの起こる原因が、分かつて来るであろう。
人は誰でも試しに坐禅の修行をし、自律神経をバランスさせ、交感神経と副交感神経とをバランスさせて、意識の根源をプラス・マイナス・ゼロの状態にして見ると良い。十人の内八、九人迄は、即座に真実に出会うことが出来るであろう。

(解説)

この章に於いては、先ず道元禅師は、仏道を勉強するに当つて一番大切な事は、自分自身の仏道修行が正しい方向に進んでいるか、間違つた方向に進んでいるかを知ることであると述べておられる。元来仏道は徹頭徹尾合理的な哲学であり、隅から隅迄疑問の余地のない徹底した真実である。そのような真実が偉大な天才である釈尊によつて発見され、代々の祖師方によつて継承され、今日迄続いて来た。したがつてわれわれは、釈尊の教えを絶対の真実として取り扱う必要があり、われわれの努力が、そのような世界でも唯一の真実に向つて進んでいるか否かを知る事が、最も重要であることが先ず述べられている。
そしてそのような釈尊の教えが何処に有るかと云うならば、われわれの足下にあると云われている。われわれの足下とは大地の事である。釈尊の教えは人間が頭の中で考えた架空の夢物語ではない。それと同時にわれわれが感覚器官を通じて捉えた単なる物質世界でもない。それはわれわれが其の中に現に生きて居る現実世界であり、われわれ自身の人生における舞台である。そこでわれわれ人間はその現実の世界を、唯一の世界として捉え、釈尊はそのような基本的な体験を基礎にして、現実主義の教えを説かれたのである。
しかし人間は何千年にも亘つて、頭の中で考え出した観念論や、感覚的な刺激を基礎とした唯物論に迷わされて来た処から、本当に自分達が信頼しなければならない現実の世界を忘れて、本来自分達が住んでも居ないような観念の世界や物質だけの世界を基準にして、問題を考えて来た処から、本当に自分が住まなければならない現実の世界を忘れて、全く架空の世界に住んでいるような錯覚に陥りながら、何千年も過ごして来てしまつた。
したがつてわれわれ人類は、本来の真実である現実主義の哲学に目覚めるために、釈尊がわれわれ人類に勧められた坐禅の修行を通じて、自律神経をバランスさせ、世界最終の哲学に目覚めることが、必要であるという趣旨が述べられている。

2006年11月17日金曜日

学道用心集(9)第八 禅僧(ぜんそう)の行履(あんり)の事

右、仏祖(ぶっそ)より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけ
ん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)
ること莫(な)し。
衣(え)は曹渓(そうけい)に及び、法は沙界(しゃかい)に周(あま)ねし。
時に如来の正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、巨唐(きよとう)に盛んなり。其の法の體(てい)為(た)らくは、摸索(もさく)するも得ず、求覓(ぐみゃく)するも得ず。見處(けんじょ)に知(ち)を忘(ぼう)じ、得時(とくじ)に心を超(こ)ゆ。
面目(めんもく)を黄梅(おうばい)に失(しつ)し、臂腕(ひわん)を少室(しょうしつ)に断(だん)ず。
髄(ずい)を得、心(しん)を飜(ひるが)えして風流(ふうりゅう)を買ひ、拜(はい)を設(もう)け、歩(ほ)を退(しりぞ)いて便宜(べんぎ)に墮(お)つ。
然(しか)れども、心に於ても身に於ても、住(じゅう)するなく著(じゃく)する無(な)し。留(とどま)らず滞(とどこお)らず。
趙州(じょうしゅう)に僧問(と)う、狗子(くす)に還(かえ)つて仏性(ぶっしょう)ありや無なしやと。
州云く、無(む)と。
無字の上に於いて、擬量(ぎりょう)し得てんや、擁滞(ようたい)し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。
請(こ)う試みに手を撒(さっ)せよ。
且(しば)らく手を撒して看(み)よ。
身心は如何、行李(あんり)は如何ん、生死(しょうじ)は如何ん、仏法は如何ん、世法は如何ん、山河(さんが)大地、人畜(にんちく)家屋(かおく)、畢竟(ひっきょう)如何ん。
看来り(みきた)り看(み)去って、自然(じねん)に動静(どうじょう)の二相(にそう)了然(りょうねん)として生ぜず。
此の不生(ふしょう)の時、是れ頑然(がんねん)にあらず、人之れを證する無く、之れに迷うもの惟(こ)れ多し。
参禅の人、且(しば)らく半途(はんと)にして始めて得たり、全途(ぜんと)にして辞(じ)すること莫れ。
祈祷(きとう)、祈祷(きとう)。

(現代語訳)

上記の表題の意味は、釈尊以来、直接の指示が単一に伝えられて、西方のインドに於いては二十八代、東方の中国に於いては六代に亘つて、ほんの一万分の一、ほんの千分の一程の追加もなく、ほんの一分子を破壊するという事もなかつた。
しかしお袈裟は、曹渓山の居られた大鑑慧能禅師に迄到達し、釈尊の教えは地球の隅々迄行き亘つている。
その当時、釈尊のお説きになつた正しい教えの眼目の処在である坐禅は、偉大な唐の国に於いて盛んであつた。
その教えの実体については、手探りで見付け廻つても掴むことが出来ず、一所懸命に求めて見ても手にすることが出来ない性質のものであつた。
基本的な考え方としては、理知的な考えを離れ、真実を得た時には理性的な心の働きを超越する性質のものであつた。
したがつて、黄梅山で修行をしておられた大鑑慧能禅師も大満弘忍禅師の下で、従来の様子と違う様子を持つように成り、太祖慧可大師も少室峰において、腕を断ち切る行動を取つた。
釈尊の教えの真髄を得た後、心境を切り換えて優雅な生活を送り、師匠に対して御拝をした後、自分の立場に戻つて、現在の瞬間に適応する態度を取るようになつた。
しかし結果として、精神的にも肉体的にも、停滞することも無ければ執着することも無く、停止することも無ければ滞留することも無かつた。
趙州禅師に対して僧侶が質問した。「逆に犬には仏としての性質がありますか、ありませんか」と。
趙州禅師云う。「無い」と。
この「無い」という言葉の意味に関して、何かを考えようとしたりまごまごしたりすることが許されようか。われわれに与えられた現実の境涯には、牛の鼻の先についた手綱のような拘束は、何も無いのである。
試みに貴方の手を自由にしてご覧なさい。取りあえず貴方の手を自由にしてご覧なさい。身体や心の様子はどうですか。行いとはどんなものですか。生き死にとはどんなものですか。釈尊の教えとはどんなものですか。人間社会の法則とはどんなものですか。山、河、大地とはどんなものですか。人間、動物、家屋とは一体どんなものですか。
これらの問題を繰り返し繰り返し観察して見ても、副交感神経が強すぎるために生まれて来る動揺もなければ、交感神経が強すぎるために生まれて来る固定も全く生まれて来ない。
此の動揺も固定も生まれて来ない時点は、決して動きの取れない状態ではないにも拘らず、これを体験する人が見当たらず、それがどんなものか体験する事無しに、迷つて居る人ばかりが多い。
現に既に坐禅をしている人々は、取りあえずその途中でそのような知識を得る事が出来たのであるから、どうか最後まで坐禅を中断しないようにお願いしたい。心から祈ります。心から祈ります。

(解説)

この章においては、坐禅をする僧侶の修行に関連して、釈尊以来個々の祖師方の追求された処が、一分一厘の狂いもなく伝承されて来ており、その実体が何かを理論的に模索したり感覚的に求めたりすることとは、違う事が語られている。
それは理知的な考えの世界を否定し、心理的な立場から抜け出した世界を意味している。しかしこのように理性的な思考の世界を否定し、心理的な世界を超越した世界が一体どのような世界であるかという問題について、二十世紀、二十一世紀の心理学、生理学の発展を待つ迄は,その正体を確認することが出来なかつた。
しかし今日ではその問題が明快に確認されている。心に関しても肉体に関しても、定着せず執着しないという状態は、自律神経がバランスして、心の意識である交感神経と肉体の意識である副交感神経とがプラス/マイナス/ゼロの状態となり、停滞もなく執着も無い行いの世界における現在の瞬間を意味している。
これが佛教哲学の出發点に当る基礎事実であり、その基礎事実を実際に坐禅の修行を通じて体験するのでなければ、われわれは行いを知り、坐禅を知り,現実を知る事ができない。したがつて道元禅師は仏道修行に関連して、坐禅の修行が不可欠である事を強調し、われわれ佛教徒に対して、坐禅をする事を懇願しておられる。

2006年11月10日金曜日

学道用心集(8)第七 佛法を修行し出離を欣求する人は須らく参禅すべき事

右、仏法は諸道(しょどう)に勝(すぐ)れたり。
所以(ゆえ)に人之(こ)れを求む。
如来(にょらい)の在世(ざいせ)には、全く二教(にきょう)なく、全く二師(にし)なし。大師釈尊、唯だ無上(むじょう)菩提(ぼだい)を以つて、衆生(しゅじょう)を誘引(ゆうい
ん)するのみ。
迦葉(かしょう)、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を傳へてより以来(このかた)、西天
(さいてん)二十八代、東土(とうど)六代、乃至五家(ごけ)の諸祖(しょそ)、嫡々(てきて
き)相承(そうじょう)して、更に断絶(だんぜつ)なし。
然れば則ち梁(りょう)の普通(ふつう)中以後(いご)、始め僧徒(そうと)より、及び王臣
に至るまで、抜群(ばつぐん)の者は、帰(き)せずといふこと無し。
誠に夫(そ)れ、勝(しょう)を愛すべき所以(ゆえん)は、勝(しょう)を愛すべきなればなり。
葉公(しょうこう)の龍を愛するが如くなるべからざるか。
神丹(しんだん)以東(いとう)の諸国、文字の教網(きょうもう)、海(うみ)に布(し)き山に遍(あま)ねし。山に遍(あま)ねしと雖も雲心(うんしん)なく、海に布(し)くと雖も波心(はしん)を枯(から)す。
愚者(ぐしゃ)は之を嗜(たしな)む。
譬(たと)えば魚目(ぎょもく)を撮(とっ)て以て珠(たま)と執(しゅう)するが如し。
迷者(めいしゃ)は之を翫(もてあそ)ぶ。
譬(たと)えば燕石(えんせき)を蔵(ぞう)して玉と崇(あが)むるが如し。
多くは魔坑(まきょう)に堕(だ)して、屡(しばし)ば自身を損(そん)す。
哀(かなし)む可(べ)し、辺鄙(へんぴ)の境(きょう)は邪風(じゃふう)扇(あお)ぎ易(やす)く、正法は通じ難し。
然りと雖も、神丹の一国は、已(すで)に仏の正法に帰す。
我が朝(ちょう)、高麗(こうらい)等は、仏の正法未だ弘通(ぐづう)せず。
何(なに)が為ぞ、何(なに)が為ぞ。
高麗国は猶(な)お正法の名を聞くも、我が朝(ちょう)は未だ嘗(かつ)て聞くことを得ず。
前来入唐((にゅつとう)の諸師、皆な教網(きょうもう)に滞(とどこ)るが故なり。
仏書を傳うと雖も、仏法を忘るるが如し。
其の益(えき)是れ何ぞ。其の功(こう)終に空し。
是れ乃ち学道の故実(こじつ)を知(し)らざる所以なり。
哀(あわ)れむ可し、徒(いたず)らに労(ろう)して一生の人身(にんしん)を過すことを。
夫れ仏道を学ぶに、初め門に入る時、知識の教(おし)えを聞き、教えの如く修行す。
此の時知る可き事あり。
所謂(いわゆる)法(ほう)我(われ)を転(てん)じ、我(われ)法を転(てん)ずるなり。
我(われ)能く法を転(てん)ずるの時は、我は強く法は弱きなり。
法還(かえ)って我(われ)を転(てん)ずるの時は、法は強く我は弱きなり。
仏法従来(じゅうらい)此の両節(りょうせつ)あり、正嫡(しょうてき)に非ずんば、未だ嘗(かつ)て之を知らず。
衲僧(のうそう)に非ずんば、名(な)すら尚お聞くこと罕(まれ)なり。
若し此の故実(こじつ)を知(しら)ずんば、学道未だ辨(べん)ぜず、正邪奚為(なんすれ)ぞ分別(ふんべつ)せん。
今、参禅学道の人、自(おのず)から此の故実を傳授(でんじゅ)す。
所以(ゆえ)に誤(あやま)らざるなり。餘門(よもん)には無し。
仏道を欣求(ごんぐ)するの人、参禅に非ずんば眞道(しんどう)を了知(りょうち)すべからず。

(現代語訳)

上記表題の意味は、釈尊の教えは他のさまざまの教えと比較した場合、優れている。
したがつて人々は、これを求める。
釈尊がご存命の時には、釈尊の教えの他に二番目の教えがある訳ではなく、釈尊の他にもう一人の師匠がある訳ではなかつた。
偉大な師匠である釈尊だけが、最高の真実を提示して、沢山の人々を誘引し指導するだけであつた。
摩可迦葉尊者が、正しい教えの眼目の処在である坐禅の修行を商那修尊者に伝えて以降、インドにおいて二十八代、中国において六代、そしてそれ以降五種類の宗派に分かれて、代々の祖師方が正当な後継者から正当な後継者へと伝えて、断絶することが全く無かつた。
したがつて梁の時代の普通年間以降、僧侶を始めとして皇帝の家臣に到る迄、群を抜いて優れたものは、釈尊の教えに帰依しないという人は無かつた。
それは正に、優れたものを大切にするということは、優れたものを大切にすることが、当然の成り行きだからである。
葉公という中国の人物が、絵とか置物とか竜の模造品ばかりを大切にしていたが、本当の竜に出合つた時に気絶してしまつたようなことが、あつてはならない。
中国より東のさまざまの国においては、釈尊の教えに関して文字による理論的な説明が、海にも広く広がつており、山にも広く行き亘つている。しかし山に広く行き亘つているとは云われているけれども、本当の意味でその内容が分かつておらず、海に広く広がつていると云われているけれども、その本当の意味が枯れてしまつている。
愚かな人々は、そのような状態を楽しむ。
例えば魚の目玉を手に持つて、真珠の玉であると固執するようなものである。
本当の事が分かつていない人間は、このような事を楽しむ。
例えば燕山で取れた宝玉でも何でもない石を、宝玉として尊重するようなものである。
そのような状態の場合には、大抵の場合悪魔の洞穴に落ち込んでしまい、屡、自分自身を傷つける。
悲しい事である。文化から遠く離れた辺境の地域に於いては、間違つた風習を崇める習慣があり、正しい教えが流通し難くい。
しかしながら中国全体は、既に釈尊の正しい教えに帰依している。
しかし我が日本の国や韓国の国々は、釈尊の教えがまだ充分には行き亘つていない。
何故であろうか、何故であろうか。
韓国においては既に正しい教えという呼び名を、聞くことが出来るけれども、我が国に於いては未だ嘗て、正しい教えという呼び名を耳にする事が出来ない。
何故そのような事が起こるかというと、過去において中国に入つて行つた沢山の師匠達が、何れも佛教の理論的側面に滞留してしまつた結果である。
佛教関係の書籍を伝承しては来たけれども、釈尊のお説きになつた教えを忘れてしまつたように見える。
そのような状況の中では、一体どのような利益があるのであろう。そのような努力から生まれる成果は、最終的には何の効果もない。
このような事態が起こるという事は、それらの人々が仏道を勉強する上での、過去の事実を知らない為である。
大変哀れな事である。それらの人々が何の役にも立たないことに苦労して、一度しかない人間としての生涯を、無駄に過ごすということは。
元来、釈尊の教えを勉強するに当つては、始めて仏道の世界に入つて師匠の教えを聞き、その教えに従つて修行をする。
その時に知つて置かなければならない事がある。
それは宇宙の秩序が自分を動かし、自分が宇宙を動かすと云う実体である。
自分が宇宙の秩序を動かす事が出来る時には、自分が強く宇宙の秩序が弱いのである。
逆に宇宙の秩序が自分を動かす時は、宇宙の秩序が強く自分が弱いのである。
釈尊の教えには昔からこの二つの状態があるけれども、仏道の正しい後継者でないと、元来この事が分かつていない。
祖末な衣服を着た実践的な僧侶でないと、そのような事実の名前さえ耳にすることが出来ない。
もしこのような過去の事実が分かつていない場合には、真実を勉強することがどういうことかということも分かつていないから、どうして何が正しくて何が間違つているかという事の、区別を付ける事が出来よう。
現に今坐禅を実際に実践し仏道を勉強している人々には、自然にこの過去の事実が伝わつて行く。
したがつて間違いを犯す事がないのである。このような事実は他の宗派の中にはない。
釈尊の教えを喜びを持つて追求している人々は、坐禅を実際に体験するのでなければ、本当の真実を理解して知ることが出来ない。

(解説)

この章においては、名誉や利得の世界を乗り越えて、真実の世界に生きる為には、坐禅の修行をする事が、絶対に必要であることが説かれている。
何故かと云うと世間一般の人々は、毎日坐禅をする事の必要性を認識していないから、ある人は普通よりやや強い交感神経を持ち続けて、その一生を終わる。そしてその場合には、名誉を得たいと云う生活態度から離れる事が出来ないから、その一生を全て名誉心のために犠牲にして過ごす結果となる。
これに反してたまたま副交感神経のやや強い人は、名誉心があまり強くない代わりに、物質的な利得に対する魅力に勝つ事が出来ない。したがつてその人の一生は、経済的の利得の為の犠牲となる傾向がある。
そのような事情から、現にわれわれが生きている人間社会においては、名誉の奴隷になつた人々と、利得の奴隷になつた人々とがひしめき合つている。
しかし仏道の立場からそのような状況を眺めた場合には、果たしてそれでよいのかという反省が湧く。仏道は名誉や利得以上の価値として真実の存在に気付き、それに対する追求を人間が追求することの出来る最高の価値と考える。そしてそのような価値観をわれわれが日常生活の中で絶えず実観するためには、われわれは絶えずわれわれの自律神経をバランスさせておく必要がある。
このような事情から、釈尊はわれわれに坐禅の修行を勧められた。したがつてわれわれは毎日坐禅をすることが、人類共通の義務であると考える事も出来る。