ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2007年1月24日水曜日

第一の「さとり」:坐禅(2)理論的な側面

1)行いの哲学

坐禅の理論的な側面を説明して行くに当つて、最初に注意して置かなければ成らない問題がある。それは坐禅自身が既に,頭で問題を考えたり,感覚器官を通じて外界からの刺激を受け入れるような,理知的な世界の問題ではなく、身体全体を使かつて何かを実行することと関係している行いの世界における出来事である。佛教哲学においては、四諦の考え方を使い、この世の中の一切のものを、観念論、唯物論,行いの哲学、現実という四つの基本的な考え方に従つて、考える方法が絶えず取られているけれども、坐禅の世界は、その四つの考え方の内,観念論と唯物論という二つの頭を使つて考える考え方を通り過ぎて、行いの世界の中で問題を考える考え方である。
処がこの行いに関する考え方は、今日における世界文明の中心を成している欧米の文化の中でも、殆ど出会う事の難しい考え方である。しかし多くの人々からは、「それは可笑しい,世界で最も発達した欧米文明の中で,他所の文明の中にあつて,欧米文明の伝統の中に見当たらない文明のある筈がない」と云う反論があるかも知れない。しかし欧米の文明と佛教文化との対比に於いては、そのような違いを認めざるを得ない。何故かと云うと佛教文化においては、欧米文化の中では見る事の出来ない、二つの次元の異なつた哲学の存在に対する主張がある。それは俗諦(samvrti-satya)と真諦(paramarta-satya)という二つの次元の異つた行いの哲学に関する主張である。その内、俗諦とは、理知の世界に於ける通常の思惟哲学であり、具体的に云えば観念論と唯物論とが其の主なものである。それに対して真諦とは、理知を中心にした観念論と唯物論との領域を離れ、現在の瞬間に於いてのみ実在する事のできる行いを対象とした哲学である。佛教においてはそのように、単に思惟の世界においてではなく、実在する現実の世界に於ける行いの世界を、思惟の哲学とは全く別個の実践哲学として取り上げた。そして坐禅もまた現実の行いという意味では、思惟の世界を完全に離れた実践の哲学である事を主張している。そのような意味では、坐禅も亦常に現在の瞬間において行われる行為に他ならないのであるから、坐禅に関する議論も当然そのような行いの哲学として、議論の対象としなければならないという配慮は、われわれが坐禅を論議を対象とする場合でも、極めて貴重で点である。

2)考える事ではない

坐禅という言葉を聞くと、人々は何かを考えることを直ぐ連想する。何故かというとわれわれ人類は、さまざまの生物の中では、最も脳細胞の発達した生物であり、しかも日常生活の中でも、絶えず何かを考える事を習慣付けられている。したががつて坐禅に関しても先ず何かを考えると云う事を連想する。しかし坐禅の本質は、決して何かを考えることではない。したがつて中国において8世紀から9世紀に亘つて活躍した薬山惟儼禅師も、坐禅の内容が考える事ではないという意味で、「非思量」と云われている。
坐禅という修行法の意味を考えるに当つて、いわゆる「さとり」を開くという考え方から、坐禅をすることは、何らかの哲学問題を考えて、その解答を得ることにあると考える理解の仕方が有るけれども、これは坐禅に対する完全な誤解である。甚だしい場合には、佛教の世界で古くから伝えられている公案という物語を師匠から与えられ、その意味を理解する事の中に、坐禅の目的を見出す考え方があるけれども、このような考え方は、坐禅の本質的な意味を誤解した極端な例である。
しかし坐禅の内容は、物事を考える事ではなく、寧ろ物事を考えない処にその本質がある。確かに人類が現に与えられている思考能力は、人類の宝であり最大の利点ではあるかも知れないが、それと同時に人類が優れた思考能力を持つていることが裏目に出て、優れた思考能力を持つているが為に、誤解を招いたり、苦しんだり、悩んだり、失敗したり、争つたり、後悔したりというような事実が繰り返されているという事実も、否定する事が出来ない。そして釈尊は人類が陥り勝ちな此の事に気付かれたと考えることが出来る。
そこで釈尊ご自身も、どうしたら考える事を止める事が出来るかに悩まれ、坐禅の修行に取り組まれたと考える事が出来る。しかし常に日常生活において出会うように、考えないという努力は、意外に難しいものである。われわれが実際に遭遇した場合には、殆ど不可能であると感じられる程、われわれが考えないと云う時間を持つ事は難しい。釈尊ご自身もわれわれと同じように、どうしたら次々に湧き上がつて来る考えを、止める事が出来るかについて悩まれた事であろう。

3)姿勢を正しくする

坐禅をする事は、物事を考えることでもないし、外界からの刺激を受け入れる事でもなく、坐禅をするという事は、自分自身の姿勢を正しくする事である。したがつて道元禅師は正法眼蔵坐禅儀(58)の中でも、「正身端坐すべし」と云われている。正身端坐とは正に姿勢を正しくして、きちんと坐るという意味である。したがつて坐禅は物事を考える事でもなければ、外界からの刺激に対して、反応することでもなく、姿勢を正しくしてきちんと坐ることである。
この事は、坐禅が考えや感覚の働きではなく、正に行いである事を示している。したがつて道元禅師にとつて最初の著作である普勧坐禅儀の中でも、道元禅師は坐禅の際における姿勢の正しさを事細かに描写され、「乃ち正身端坐して,左に側(そばだ)ち,右に傾き,前にくぐまり、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す」というような書き方で、坐禅における姿勢の正しさが、極めて正確に強調されている。そして此の事は、坐禅に於ける姿勢の取り方が、如何に大切であるかという問題を、極めて明瞭に示しているのであつて、坐禅をしている際に姿勢が壊れている事は、坐禅をしていないのと同じであると考えてよい。
では人間にとつて、何故そのような姿勢の正しさが必要なのであろうか。これは人間が自分の姿勢を整えた時に、人間の自律神経がバランスして、人間の最も正しい本来の状態に立ち戻る事が出来るという事実と関係している。勿論釈尊が生きておられた時代に、そのような科学的な知識があつた訳ではない。しかし真実を探究し、真実を把握するためには、人生の全てを犠牲にして何ら悔いることのなかつた釈尊の生活態度からは、姿勢を正している際に現れて来る極めて安定した状態とそれに伴う幸福観が、現実の事態として感得された事であろう。
しかし釈尊によつて二千数百年前の発見された、人間社会における真の幸福が、古代のギリシャ・ローマ時代に盛んとなつた観念論と唯物論との相剋によつて覆われ、その真の姿を歴史の上に展開する事が出来なかつた事実は、避ける事の出来なかつた歴史的な必然として、当然甘受しなければならない処であろう。
しかし20世紀,21世紀に入つてからの歴史的な展開は、人類の歴史が今まで抱えていた観念論と唯物論との相剋から抜け出して、太陽が燦々と輝いている大地の上で、美しく咲き乱れている草花を楽しむことの出来るような、一元的な現実主義の時代が到来しつつあると解釈することが出来る。そしてそのような超楽観的な思想が、この地上世界で許されるかも知れないと考える事の出来る根拠が、人間や動物等において発見する事の出来る自律神経のバランスにより、何千年のもの長期に亘つて人間社会を束縛して来た観念論と唯物論との対立が、実は虚妄の思想であり、自律神経のバランスによつて生まれて来る現実肯定の思想によつて、人類は全く新しい黄金時代を迎える可能性が、日一日と近ず来つつある事実を否定する事が、私にとつては不可能である。
道元禅師が、当時まだ非常に危険であつた航海を敢えて実行し、師匠の天童如浄禅師から伝えられた最も貴重な教えが、[身心脱落」という思想であつた。しかし身体が脱け落ちるということもあり得ないであろうし、心が脱け落ちるということも、実際問題としてはあり得ないであろう。したがつてこの[身心脱落」という言葉の意味も、天童如浄禅師や道元禅師を除いては、長い期間に亘つてその本当の言葉の意味が解らなかつたということが、事実であつたであつたと思われる。しかし幸いにして二十世紀、二十一世紀に入つてからは、科学特に心理学,生理学の発達により、その本当の意味が解明されたように思う。
つまり「身心脱落」に関する本当の意味は、自律神経において身体の働きと密切な関係のある副交感神経と心の働きと密切な関係のある交感神経とが、丁度同じ強さの状態となり、プラス/マイナス=ゼロの状態が生まれ、身体も心も意識されなくなつた状態を指すものと思われる。そしてそのような場合には、人間生活において絶えず人間を悩ます副交感神経の働きである肉体的な欲望の問題も消え、同時に人間生活における別の悩みである精神的な思考の苦しみも、姿を隠す。そこにおいて現れて来るものは、眼の前に現れて来る現実の世界であり、それに対応して現れて来る現在の瞬間に於ける自分自身の行いである。このように自分自身に与えられた現在の瞬間において、自分自身の人生を真剣に生きて行く状態が、「身心脱落」の本当の意味である。

4)唯坐る

したがつて坐禅は、正に「行い」である。そこで道元禅師も正法眼蔵三昧王三昧(72)の巻の中で、天童如浄禅師の言葉を引用して、「只管ニ打坐セバ、始ニシテ得タリ」と云われている。その意味は、唯坐禅さえするならば、「さとり」は始めから得られているという意味である。坐禅は何か他の目的を得るための手段ではなく、坐禅をする事自体が「さとり」である。坐禅は毎日の実行があるだけであつて、坐禅を毎日実行していると、その内に「さとり」が開らかれて来るというように、目的と手段とが別々に別れた状態が真実ではない。坐禅をしている状態そのものが「さとり」であり、自律神経のバランスそのものが「さとり」である。
勿論、自律神経のバランスは、坐禅の中だけに在るものではなく、人間の行いの全ての中に在る。しかしわれわれの日常生活の中で、常に自律神経のバランスを保つということは、理論的にはあり得るとしても、実際に実現することは非常に難しい。そのような事情から、釈尊は古代インドにおいて古くから実行されていた、ヨガの修行における最高の姿勢を採用して、仏道における基準の修行法とされた。
したがつてわれわれは、仏道に於ける最高の修行法である坐禅の修行を毎日励行することにより、毎日われわれ自身の自律神経をバランスさせ、釈尊が仏道を得られた状態と同じ身心の状態の中で、一日一日仏道に適つた生活を積み上げて行くのである。それが仏道修行であり、真実の体験である。
そのような意味で、坐禅が仏道の全体である。坐禅をすることが、仏道の全てである。