ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

English / German

2009年3月20日金曜日

仏道讃歌(5)実在論

欧米の哲学に於いては、観念論と唯物論とが古代のギリシャ・ローマ以来、最も代表的な哲学として何千年にも亘つて伝承されて来たのであるが、実在論は欧米の社会では殆ど説かれる事が無かつた。何故かと云うと欧米の社会に於いては、素朴実在論という言葉が長く使われて来たけれども、これは「この世の中が実際に実在するという考え方は、子供のような単純な頭脳でも考える事の出来る考え方であるから、哲学的な議論には成らない」と考えられて来たからである。

したがつて日本に於いても,明治維新以後,仏教が議論される場合には、天台宗,真言宗、日蓮宗のような実在論を基礎とする仏教宗派が衰退し、浄土宗,浄土真宗、時宗等の浄土教系の宗派が盛んに成り,臨済宗、曹洞宗,黄檗宗のように坐禅を中心とする宗派は、どつち付かずの形で生き延び、その為に仏教を実在論系統の思想として考える立場が殆ど消えた。

しかし古く紀元前四、五世紀頃に生まれた釈尊の教えを考えて見ると,それまで古代インドの人々に依つて信じられていた古い観念論の例として考えられるバラモンの教えと、釈尊が出られた少し以前に活躍した六師外道と呼ばれる唯物論若しくはそれに近い唯物論的な思想とを、共に否定して,釈尊の説かれた仏教哲学が正に実在論哲学である。

しかもこの釈尊の説かれた実在論哲学が、どうも世界の哲学史の中で説かれた唯一の実在論哲学であつた可能性がある。何故かというと仏教以外にも実在論哲学と呼ばれる哲学は存在したのであるが、それらの哲学は欧米社会に於ける唯物論哲学と同一の哲学であつた可能性が有る。何故かと云うと欧米社会に於いては観念論哲学と唯物論哲学とを対比させて、その中間に
真の実在論を發見するプロセスが欠けて居る可能性が考えられるからである。

このように考えて来ると、釈尊が紀元前四、五世紀の頃に発見された実在論が、人類の歴史の中で發見された唯一の実在論である可能性があり、しかもその世界最初の実在論が、四諦の教えを伴う難解なものであつた為に、二十世紀の時代までその真意が解らなかつたという歴史的な事実があつたように思う。したがつて人類は二十一世紀以降、本当の意味で実在論を理解する事の出来る時代に出会う可能性が生まれたと考えられるのであつて、此のような時代の到来は人類の歴史にとつて小さい事実では決して有り得ない。

2009年3月14日土曜日

仏道讃歌(4)行為の哲学

四諦の教えにおける最初の哲学は観念論哲学であり、二番目の哲学は唯物論哲学であるけれども、釈尊は観念論哲学は人間が頭の中で考えた哲学であり、唯物論は人間が眼や耳の様な感覚器官を通じて受け入れた外界からの刺激を基礎にして、やはり頭の中で考えた哲学であるから、決してわれわれが現に今生きて居る現実の世界を説き明かす哲学には成り得ないということに気が付いた。

釈尊は、われわれ人類が現に今生きて居る世界は、思考の世界でもなく、感覚の世界でもなく、現実の世界であり、行いの世界であり、われわれ人類が生きる事を許されて居る唯一の世界である事に気付いた。そして人類が現に今生きて居る現実の世界における実体として,現在の瞬間に於ける行為そのものを,人類の思考や感覚とは別個の現実の世界として掌握した。

古代インドにおいては、紀元前13〜12世紀の頃から、観念論哲学を基礎とするバラモンの教えが、民衆の心を捉えたのであるが、釈尊が世に出られた5世紀前後の時代には六師外道と呼ばれる6人の懐疑論乃至唯物論を主張する思想家が現れ,バラモンの教えと激しく対立して居た。

したがつて釈尊は、観念論を信じて居るバラモンの教えと六師外道と呼ばれる懐疑論乃至唯物論を主張する6人の思想家とのどちらが正しいかを検討されたが、結論として何れの立場にも組する事が正しくない事に気付き、観念論と唯物論との両方を否定して、現在の瞬間における個人の行いを実在とし、宇宙全体を実在とする仏教哲学を確立した。

釈尊の実在論に依るならば、われわれが絶えず与えられて居る現在の瞬間における行いが実在そのものであり、宇宙そのものである。宇宙とはわれわれが現在の瞬間に於いて実行して居る行いそのものである。このような基礎に立つて釈尊はわれわれの日常生活に於ける現在の瞬間の行いが,現実そのものであり宇宙そのものである事を主張した。

2009年3月11日水曜日

仏道讃歌(3)因果の理法

四諦の教えに関連して、釈尊が二番目に取り上げた思想が,「因果の理法である。」 四諦の教えの二番目に集諦という考え方が出て来るが,これは現にわれわれが今生きて居る外界の世界は、物質的な観点から見るならば、原子,分子という様な物質的な最小単位の寄り集まりで有ると云う捉え方である。この世の中は、物質を基礎として自然科学的な立場から考えるならば、原因があればその結果が必ずあり、その様な原因結果の関係は一分一厘の狂いも無く、この世の中を支配しているという考え方である。

しかし現在の一般社会では,必ずしもこのような原因結果の関係が、この世の中の全てを支配して居ると云う考え方が認められて居るとは思えない。けれども釈尊の説かれた教えの中では,このような因果関係の存在には、一分一厘の狂いも無い事が強調されている。

今日の人間社会においては、「正直者が馬鹿を見る」という諺もあつて、正しい人が必ず幸せになり、正しくない人は必ず不幸せになると云う考え方は、一般に認められていない。併し仏道の世界では、正しい人が幸せになり、正しくない人は決して幸せに成る事が有り得ないという主張が行われて居り、長い人生を振り返つて見ると、この世の中における実情も、やはり釈尊のお説きになつた教えが正しかつたように実観される。

そして人類の歴史の中でも実際に正しいと思われる勢力が、滅ぼされたように見える場合も、幾らも有るようにも見受けられるけれども、歴史の内情に立ち入つて考えて見ると、歴史の中の実情としては,滅びて行く筈の勢力が滅びて行つて居るのであつて、原因・結果の関係に関しては、一分一厘の狂いも無いという主張が、仏教思想の特徴である。

しかしこのような因果関係の存在を100%認める立場に立つと、人類の歴史は既に無限の過去から決まつている事に成らざるを得ない。其処で釈尊は次の段階として、行為の哲学を説かれた。

2009年3月7日土曜日

(情報)

「根本的な中論の歌」に注釈を付けることを始めます。