ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2010年3月15日月曜日

第四章 集合体に関する検証(9頌)

第一頌

あらゆる外界の現象は、物質的な存在であり、個々ばらばらな存在である。

あらゆる外界の現象は、何ものに依つても、所有されて居るものでは無い。

あらゆる外界の現象そのものに依つて、自由であると云う事でも決して無い。

あらゆる外界の現象が、物質的な存在として見えるだけの事である。


第二頌

あらゆる外界の現象は,物質的な存在であり,自由な状態の中に在る。

外界の現象の中に在るとか、外界の現象を作つて居るとかと云う考え方は、拘わり過ぎて居る。

理論的で無いものが、目的として有ると云う事は、決して有り得ない。

合理的でないものは、目標としては何処にも有り得ない。


第三頌

さあ、あらゆる外界の現象に依つて、自由な状態が作られて居る。

そしてその場合には、恐らくあらゆる外界の現象は、物質的な存在であろう。

恐らく実行不可能な性格のものが、物質的な性格として存在して居るのであろう。

しかし実行不可能な状態とか、物質的な性格と呼ばれるようなものは、実際には決して実在して居ないのであろう。


第四頌

あらゆる外界の世界の中に実在して居るものは、正に外界の世界に帰属して居る。

其処には物質的な存在の現れて来る筈が全く有り得無い。

あらゆる外界の世界の中に実在して居ない場合でも、

其処には物質的な存在の現れて来る筈が全く有り得無い。


第五頌 

何の根拠も無いものが、やはりあらゆる現象を作り出して居る。

何も全く存在して居ない状態が、何かを生み出すと云う事は、全く存在する事が有り得無い。

従つてあらゆる外界の現象が、何かを作り出すと云う事が云える。

代案を選ぶ事が願望されたと云う事では無い。


第六頌

物質的な存在の中に、正しさは含まれて居ない。

唯、実行可能と呼ばれる状態だけが、現れて来る。

物質的な存在の中には、不正も含まれては居ない。

唯、実行可能と呼ばれる状態だけが、現れて来る。


第七頌

発見の為の行為に於ける心構えは明確な理解であり、

様々の明確な理解と徹底的な態度である。

全般的な態度と同時に、全べてが実際に存在する事である。

正にあらゆる現象に依存して、全ての行為が一斉に実行される事である。


第八頌

何であれ、孤立の対象に成つて居るものは、孤立し勝ちである。

交感神経と副交感神経とが均衡して居る状態を作り出すことが、語り合われて居る。

この世の中の一切のものは、具体的な事物の中で、特に回避された状態には成つて居ないし、

全べてのものは、管理された状態に沿つて、作り出されている。


第九頌

或るものは、その様な説明に依つて、非難の対象と成つて居るけれども、

自律神経のバランスした状態を作り出す事が、語られて居る。

全てのものは、具体的な事実の中に含まれて居り、非難される事が無い。

どんなものでも、管理される事に依つて生まれて来る。

2010年3月12日金曜日

第三章 眼その他の感覚器官に関する検証(8頌)

第一頌

見ること、聞くこと、嗅ぐこと、

味わうこと、触れること、感覚中枢の働き、

これら六種類の感覚作用が身近にあり、

見られたものその他が、その対象となつて居る。


第二頌

自分自身を自分自身の心が眺めると云う事態であるから、

具体的な主体が、具体的な客体を実際に眺める状態と同じでは無い。

何かが自分自身の心を眺めると云う事態とも同じでは無いのであるから、

具体的なものが、何か遠くに有るものを眺めるような状況であると云う事が、どうして有り得よう。


第三頌

豊富な内容は、単に火が見えて居る様な単純なものでは無い。

現実に見えて居るものは、通常、充分に飾り立てられたものであり、

現に眼の前に提示されて居るものが現実であり、言葉ではつきりと説明する事が出来る。

それは行きつつ有るものであるか、既に行つたものであるか、まだ行つて居ないものかである。


第四頌

何かを観察するのでもなく、何かを考えるのでもないと云う状態は、存在しない。

その様な場合には、何かを観察すると云う事では、決して有り得ない。

その様に何かを観察すると云う事は、何かを見ると云う事と同じである。

この場所に於けるこれが、今や拘束されて居ると云うことが、どうして有り得よう。


第五頌

視力の有ると云うことが、何時も何かを見ると云う事には成らない。

視力の無い事が、何時も何も見ないと云う事にも成らない。

詳細な説明は、実際に物事を眼で見た場合と同じ様な働きがあるし、

良く物事を見る人は、実際に物事を手に持つた場合と、同じ様な効果が有る。

 
第六頌  

物事をよく見る人は、何時も否定的な見方をしないと云う事が無い。

物事を批判する事が出来ると云うことは、正に物事をよく見る力を、持つて居るという事を意味して居る。

批判をする能力と、物事をよく見る能力とは、正に同じものであり、

物事の価値を判定する事の出来る人が居なければ、具体的に価値のあるものが、一体,何処に有り得るであろう。


第七頌

検査をする力量の有る人と、視力が有ると云う事とが、欠けて居ないならば、

認識その他の働きが、四種類の働きとして活躍する。

若しも感受作用その他の働きが実在し無いとするならば、

やはり将来、どの様なものの存在を認める事が出来るであろう。


第八頌

此処で説明した問題や、聞くこと、嗅ぐこと、

味わうこと、触れること、及び感覚中枢の働きも、

物事を見る場合を母型として、

聞く人、聞かれた内容等に付いて、同じ様に説明する事が出来る。

2010年3月6日土曜日

第二章 「行つた」、「まだ行つていない」に関する検証(25頌)

第一頌

「行つた」という行為が行くことは無いし、それと同じように、

「まだ行つていない」という行為が行くことも、決してない。

「行つた」、「まだ行つていない」はお互いに拘束し合う関係にはないし、

[行きつつある」という状態も,行くということはない。


第二頌

手足を動かす動作がある処では,前進があり得る。

其処に於いては、行きつつあるという事が,正に現実である。

行かない事も、行かない事と違う事も、やはり行いである。

行きつつあるという状態の中で、行くという事が具体的な事実である。


第三頌

行くという現実の行いは、行きつつあるという状態の中に含まれて居る。

どうして改めてその呼び名の現れて来る必要があろう。

行きつつあるという状態は、ばらばらに分かれた行くという動作の連続であり、

従つてその場合には、何かが現れて来るという事では決して無い。


第四頌

現実に行くという行いは、現に行きつつあるという状態の中に含まれて居る。

行きつつあるという状態と、現実に行くという行いとが、相互に自我を主張し合つて居る。

行くという事は、行きつつあると云う状態が、行き続ける事である。

何故ならば、行きつつあると云う状態が、行つて居るのであるから。


第五頌

行きつつあると云う状態の中で、従つて行くという動作の中で、

行いに含まれている内容は、行くという行いに含まれて居る二つの要素である。

何故ならば、具体的な事実は行きつつあるという行いの連続であり、

それはやはりその場に於ける現実的な行いその侭である。


第六頌

行くと来るとの両方が,眼の前にある。

行くと来るとの両方が密着して居る。

行くという目的は軽視されるのであるから、

現実に行くと云う行いは、姿を現わさない。


第七頌

行くという目的が軽視される場合には、

現実の行いは姿を現わして来ない。

現実の行いの中に、行く事の目的が実在して居ない場合には、

一体何処にそのような目的が、存在し得るであろう。


第八頌

行つたという事実と、行きつつあると云う事実とは全く違う、それと同じように、

まだ行き着いて居ないと云う状態と、現に行きつつあると云う状態とも、全く違う。

行つたという事実と全く違う状態が,行かなかつたと云う事実であり、

実際には、何かはつきりし無い第三者的なものが、現実には行くのである。


第九頌

行つたと云う言葉は、ほんの僅か前進した事を意味する。

どうして将来と云えども、何かが起こつた事を意味する事が有り得よう。

実際に行く事によつて、現実に行つたと云う事実が無ければ、

その場合は、何も起こつて来わしない。


第十頌

二つの中の一つとして、行つたと云う事実が、実際に前進したと云う考え方は、

あれとこれとが入り組んで終つて居る。

実際の行いに頼るという事は、行くという事実に気が付かない事であり、

実際に行く事に依つて、願望が実際の行いを形作るのである。


第十一頌

行くという現実の行いを、行くと云う行いと行くという動作との二つに分割する事は、態度に稍こだわりがあり過ぎる。

その場合、実際に行つたと云う事は、正に行つたと云う事実を意味する。

行つたと云う事は,正に誰かに依つて動きが実行される事であり、

現実の何かが、正に動く事である。


第十二頌

行くと云う動作の中に、行くと云う動作そのものが、含まれて居る訳ではない。

しかしそれと同時に、行くと云う動作の含まれて居ない事は、行かないと云う事を意味する。

行きつつあると云う状態の中に、行くと云う動作が含まれて居る訳でもない。

行くという動作そのものは、一体何処に保持されて居るのであろう。


第十三頌

実際に行くという行為が開始される以前ばかりでは無く、

行為が実際に実行されて居る状態の場合も、やはり既に行つたという状態では無い。

其処に於いては、実際に達成されたと云う状態が、現実に行つたと云う事の意味であつて、

まだ行つて居なければ、現実に行つたと云う事実は、何処にも現れて居ない。


第十四頌

行つたと云う事実が、どうして行きつつ有るという事実と、同じで有り得よう。

まだ行つて居ないと云う言葉の意味は、どう云う意味であろう。どう云う言葉に依つて、
置き換える事が出来るであろう。

それは眼では見る事の出来ない思想が、既に始まつて居ると云う事であり、

現実の行為に内在して居るものが、正に一切のものの全てであると云う事である。


第十五頌

行つたと云う状態も停止したものでは無く、それと同じ様に、

行か無かつたと云う状態も、決して停止した状態では無い。

そしてその他の行くと云う状態以外のものも、現実問題として行か無い訳では無い。

現実問題として、一体、何の様な第三者の停滞すると云う事が有り得よう。


第十六頌

行つたと云う行為もやはり停滞する事が有るのと同じ様に、

どうしてその様な事態が,将来も同じ様に起こると云う事が有り得よう。

現実の行いに依つて、行つたと云う事実を取り消す事が出来るとするならば、

その場合には、どの様な事態も、何時も起こさ無いで済ます事が、出来る筈である。


第十七頌

行きつつ有ると云う状態を、止める事が出来ないとするならば、

行つたと云う状態も止める事が出来ないであろうし、行か無かつたと云う状態もやはり止める事が出来ないであろう。

そしてその様な場合には、現実の行くという行いが現れて来るだけの事であろうし、

その行為を停止する場合も、継続する場合も、行為の結果は同じであろう。


第十八頌

それが正に、行くと云う実際の行為であり、行つたと云う事実である。

正に現実と呼ばれる事実であり、固定された事実ではない。

それと異なるものも、やはり正に行つたと云う行為であり、

行為に隷属する形で拘束されて居るものではない。


第十九頌

それが正に現実に行くという行為であり、行つたという事実である。

その場合には正に、現実の実在する事が望ましいのであるから。

一つのものに合体する事が望ましいのであり、

実行に関しても、行為の目的に関しても、事態は同じである。


第二十頌

それとは違う場合で、やはり行つたと云う状況とは入れ替わる場合でも、

その場合には、行くと云う状態そのものが入れ替わる。

その場合には、現実の行くと云う行いそのものが、実際に入れ替わるのであつて、

恐らく行つたと云う状態が、現実に行くと云う動作を離れて、動くのである。


第二十一頌

たつた一つのものに成る事、言い換えれば目標を達成する事は、

依然として多種類の状態に頼るか、または二種類の状態に頼るかと云う事であり、

二種類に分かれた状態を、完成された状態として認める事では無い。

何もない状態に対して、実際に何かが有る様な認識を持つ事が、どうして出来よう。


第二十二頌

具体的な動作を使つて、それを実際に実行する事が、行くと云う行いである。

行くという具体的な動作を使つて、現実が実際に前進する訳ではない。

従つて、行くという具体的な動作が、再度前進すると云う事実が、実在する訳ではない。

主体としての何かが、或は客体としての何かが、容れ物として前進するのである。


第二十三頌

具体的な動作を使つて、それを実際に実行する事が、行くと云う行いであり、

それ以外のものの発展が、現実として前進する訳では無い。

行くと云う主体と客体とが、両方重なつて現れる訳では無く、

従つてたつた一つのものが、主体として且つ客体として現れて来るのでは無い。


第二十四頌

現実の世界、現実の行い、そして現実の実行、

その様な三種類のものが、同時に前進する訳ではない。

抽象的な存在が、現実的な行いであると云うことは、絶対に有り得ない。

現実の世界、現実の行い、そして現実の実行と云う三種類のものが、現実そのものとして、
前進するのである。


第二十五頌

現実の行い、現実的な世界,そして抽象的な世界、

この三種類の世界が、前進する訳では無い。

従つて行くと云う行為も、行つたと云う事実も、

行くと云う行為が現に実行されて居ると云う状況も、認識の対象と成る事が決して無い。










 








 




















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