ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2010年4月28日水曜日

第十一章 人生の始期と終期とに関する検証(8頌)

第一頌

人生に於ける始期と終期との意味が、はつきりと解る以前に於いては、

偉大な聖者は、まだ何も宣言して居られない。

人生に於ける浮き沈みは、その出発点に決して劣つて居ないので有るから、

馬や牛を制御する手綱その他も、決して後順位に置かれるべき性質のものでは無い。


第二頌

その様な部類のものに属して居る場合、最優秀のものでは決して無いけれども、劣つて居るものでも決して無い。

その様な分類の中で具体的に中間的なものは、一体何処に帰属して居るので有ろう。

その様な状況の場合、その様な場所に於いては、何事も起こり難い。

激しい辛抱の前か後に、唯前進が有るだけの事で有る。


第三頌

誕生以前にも、犠牲の捧げものが有り得るし、

老化も死滅も、未来の事に属する。

様々の不老や様々の死滅も、一種の誕生であり、

誰かの誕生を乞い願がつて居る事も、不滅であると云える。


第四頌

将来、誕生が存在する場合には、

老齢や死滅も、その他の具体的な事実である。

不合理な事は将来と云えども、恐らく実際に起こる事が無いので有ろうから、

老化とか死滅とかと云うものは、一体何なので有ろう。


第五頌

老化と死滅とは、決して同じでは無い。

誕生も実際には全てのものと同じ様に、縛られて居る。

死ぬ事を希望すると云う事は、父親が子を持つ事を希望する事と同じで有り、

恐らく実際には、理屈に合わない二つの方法の両方に頼る事であろう。


第六頌

その様な近くの場所に於いては、何も見えて来ない。

先の場合も有れば遅れた場合も有るけれども、全てが一緒に揃つて前進して居る。

様々の事物やその出発を早める事は、具体的な事実であり、

具体的に老齢化したり死去したりする事は、一体何で有ろう。


第七頌

作られたものとその作られた原因とは、全く同じもので有り、

その直接の表現と目標とは、正に同じもので有る。

公表する事と周知させる事とは、正に同じものとして実在するし、

そうする事に依る目的は、正に言葉では表現する事の出来ない何かで有る。


第八頌

人生の始期と終期とは、事前に認識する事が出来ない。

人生に於ける浮き沈みの中で、純粋に自分自身に帰属して居るものは無い。

一切の活気と強さとを持つ事の出来る可能性さえ、存在して居るにも拘らず、

人生の始期と終期との外側を認識する事は、不可能で有る。










第六頌

其の場合、様々の状況が徐々に近ずいて来る事を意味して居る訳では無い。

事前に或は事後に、様々の前進が一斉に有り得るので有る。

様々の事実や様々の誕生を、具体的な事実として拡大させる事が可能であり、

其の場合、具体的な老齢化とか死去とかは、一体何を意味する事に成るので有ろう。


第七頌 

2010年4月22日木曜日

第十章 炎と燃焼との融合に関する検証(16頌)

第一頌

若しも或る点火が、現実に行われるならば、

炎は行為をする人と、行為に関係して居る事とが、一つに重なつた状態を作り出す。

若しもそうで無い場合には,炎が点火を離れた状態で、

状態が炎を離れた侭で、動き出す事が可能である。


第二頌

恒常的な状態で正に点火され続けて居るものは、恐らく、

嘗て点火された事実の無かつた事が、理屈に適つて居る。

再度点火される事は無益であるし、

やはり何の目的も持たない事が,現実で有ろう。


第三頌

何処か他の場所で,気付かれ無い状態が無視されて居るのであろう。

恐らく点火されて居ない状態であると考える事が、合理的である。

この場合も、再度始める事が無益な状態なので有ろう。

始めから燃え盛つて居る状態は、強制的に継続されるので有る。


第四頌

その様な状況の中では、恐らく火が燃え続けて居るので有ろう。

その場合には、点火が継続されて居ると云える。

どの様な状況で,点火が燃焼の事実に変わるので有ろう。

其の場合には非常に大量の物が、この場所に於けるこれとして有るので有ろう。


第五頌

若しもそうで無ければ、それが達成されると云う事は無く,達成され無い状態として残る。

その場合には、燃焼させる事が出来ないから、やはり完全に燃焼させる事が不可能である。

火がまだ消されて居ないと云う事は、火がまだ燃え尽きて居ない事を意味するから、

火がまだ自分自身の文法上の性別を、変えて居ないと云う事が云える。


第六頌

其れとは違つて、やはり燃焼から離れた状態が炎である。

その場合に、中性名詞である点火が、点火から離れたがつて居る。

しかし女性は男性に出会いたがつて居る。

その様な場合には、男性と女性とが共に、其処に有る。


第七頌

亦別の言い方をすれば、正に燃焼と云う観念を離れた所に、炎が有る。

燃焼を望み通り希望に沿つて掴む事が出来る様に成る。

炎と燃焼とが完全に一体化した処に、

一つ一つのものを離れ、物事を見る事そのものを離れる事に依つて、現実が見えて来る。


第八頌

何かを良く見る人は、正に現実の人であり、現実の人は正に良く聞く人でも有る。

其の場合、現実の人とは、正に他人に対して何かを発表する人の事であり、

一つ一つの事柄に付いて事前に存在する可能性が有る。

その様な方法で、具体的な場所に於ける具体的なものは、他のものと混同される事が無い。


第九頌

他のものを良く見る人も、他のものを良く聞く人も、

其の場合には、やはり他のものに就いても発表出来る人で有る。

恐らく現実的に物事を見る事の出来る人が実在し、現実的に物事を聞く事の出来る人が実在するので有ろう。

其の様な人々が多数存在して居るで有ろうと云う事実は、正に個々の人間が多数存在して居ると云う事実を通して、知る事が出来る。


第十頌

見る事、聞くこと、その他。

知識の限界その他も、正に眼の前に有る。

物事を探し求める様々の行為が、その様な多数の存在や具体的な事物と一緒に存在し、

特に様々の存在に帰属して居る場合には、認識の対象と成る事が難しい。 


第十一頌

見る事、聞くこと、その他。

知識の限界その他も、正に眼の前に有る。

そしてその様な状況の中では、現実は全く認識の対象とは成ら無い。

知識の限界が、正に此の場所に於けるこれとして、眼の前に有るだけの事である。


第十二頌

何かはつきりし無いものが前方に向つて、物事を見る等の感受作用に従属して生まれて居る。

現在の瞬間に直属した状態が、正に直立して侭で上方に向つて具体的に積み上げられて居る。

実在して居るとか、実在して居ないとかと云う状態は,認識する事が出来ない。

其の具体的な場所に於ける空虚さは、頭の中で作り出されたものの様に思われる。














































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































とは他人の云う事を,良く聞く人の事である。

其の様な場合、現実とは正に外の人に対して、何かを発表する事で有り、

2010年4月20日火曜日

第九章 瞬前に関する検証(12頌)

第一頌

見たり聞いたりする事,その他、

感受作用その他が、正に眼の前に在る。

そして其れらの中には、それに先行して存在する様々のものが有り、

その後に、現実がたつた一つのものとして実在すると云われて居る。


第二頌

一体どう云う理由からか解らないけれども、現に存在して居ないものに所属して、

ものを見る事その他の機能が、既に存在すると云われて居る。

従つて、その様な状態に付随して、先行する様々の事物の存在が有り得るので有るが、

其の事は、現実が実在し、存在が秩序正しく置かれて居る事を意味して居る。


第三頌

見る事、聞く事等に依存して、

従つて、正に感受作用等に実際に依存して、

ある種の秩序正しい組織が先行して、存在して居る。

何故その様な場所に、現実そのものを見分ける事が出来るので有ろう。


第四頌

見る事その他の感受作用がまだ全く見当たらない時点でも、

やはり一定の正しい秩序が、見受けられる。

何か言葉では現わす事の出来ない特別のものでさえ、存在する事が将来と云えども期待出来なくなつて終う。

若しもその様に単純な事実さえ、地上に存在する事が出来無いので有れば、休む為に横になる事でさえ出来なくなつて終う、


第五頌  

何等かの手段に頼ろうとしても、何かに頼ろうとしても、事態は進展し無い。

何かを頼つて見ても、何等かの手段に頼つて見ても、事態は進展し無い。

何処に何かが有るので有ろう。何も何処にも有りはしない。

あれも是も、何処にも有りはしない。


第六頌

全てのものを離れた場合、見る事その他の全ての感受作用を離れた場合、

事前には、一切のものを感受する可能性が全く見当ら無い。

しかし見る事その他の全ての感受作用に属するものが、全て推進される場合には、

違つた状況に依存して、違つた事実もやはり有り得る。


第七頌

全てのものの中に内在し、物事を見る等あらゆる感受作用の中に内在して居る場合、

その様な場合の中では、瞬前と云う事実は、認識の対象と成らない。

一つ一つの個々のものの有り方に従つて、瞬前と呼ばれる状態がどうして有り得よう。

物事を眺めると云う一つ一つの行為の中から,現実は見えて来る。


第八頌  

物事を良く見る人は正に現実の人であり、物事を良く見る現実の人その者である。

その時は正にその現実の事実そのものが、現実そのものを他人に物語つて居る。

その様なたつた一つの事実に依つて、瞬前が存在し得る。

決してたつた一つの瞬間が、何時でも関連して居る訳では無い。


第九頌

物事を良く見ない人は、やはり物事を良く聞かない人でもある。

他人に対して何かを伝え無い人も、やはり同様で有る。

実際問題としては,恐らく良く他人に知らせる事に頼る人であり、他人から良く聞く人でも有るであろうけれども、

多分本人特有の習慣を大量に持つた人でもあるであろう。


第十頌

見ること、聞くこと、その他の感受作用、

知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。

其れ等のものの中には、様々の事実の中には、探し求める行為が含まれて居り、

様々の現実の中では、特に目立つものは見受けられ無い。


第十一頌

見ること、聞くこと、その他の感受作用、

知らせる等の広報活動その他が、正に眼の前に有る。

そしてその様な情景の中では、現実は決して認識する事が出来ず、

知識の限界は、此の場所に於けるこれと云う表現でしか現わす事が出来ない。


第十二頌

正に眼の前に直面して居る事実が、見る事その他の知覚作用に包含されて居るので有り、

季節に適合して居る現状が,正に碓立された事実で有る。

実在して居るとか、実在して居ないとかと云う認識は不可能で有り、

其れを想像の産物として作り上げる所には、欠落した空白を避ける事が出来ない。

2010年4月18日日曜日

第八章 行為と動作との融合に関する検証(13頌)

第一頌

現実に実在するものは、行為であり、行為そのものである。

何か現実に実在するものを作り出す訳ではなく、たつた一つのものが既に出来上がつて居るので有る。

何かを実行する事は、他の何かを手に入れる為に、別の何かを我慢することでは決して無い。

しかし行為が他の目標を達成する為に我慢の対象と成ることは、憧れの目標となつて居る。


第二頌

何かを実行する事は,現実の存在の中には実在して居ない。

行為は事実問題として、恐らく行動的な事実の減少を意味して居る様に思われる。

何かを実行する事は、現実の存在の中に実在して居る訳では無い。

何かをする人は、実際問題として特別の目標を持たない場合が多い様である。


第三頌

現実的でない存在が、何かを作る場合には、

行為や行為を実行する事により、現実的でない存在が作られる。

行為の理由付けがはつきりして居ない場合も有り得るし、

行為をする人が、事実問題として理由付けに関して、はつきりし無い場合も有る。


第四頌

刺激物が何かの達成を可能にすると云う事は,実際問題として有り得無い。

その事を実現させる為の原因を見出す事は、全く不可能である。

その様な事実が存在し無い場合には、

その動機そのものを認識する事が、完全に有り得無い。


第五頌

宇宙の秩序と呼ばれるものも、宇宙の秩序と呼ばれないものも,眼で見る事は出来ない。

何かを実行する事等に帰属して居るものも、綜合的な存在に帰属して居るものでは無い。

宇宙の中に実在して居るものでは無く、宇宙以外の場所にも含まれて居ないけれども、

結果や結果に吸収されてその中で呼吸して居るものは、認識する事が出来ない。


第六頌

結果の中では、利益からの解放が実在し無い訳では無い。

しかし天国の様な世界に接近する事態は、起こらない。

探究は全て何かを実行する事の中に、事実上含まれて居る。

通常特別の目標を持たず、創造神プラジャー・パテイが、自分自身に固執して居る。


第七頌

何かを実行する事は、現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつた存在を意味するの
であつて、

現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつて出来上がつたものが、具体的なものであると云う訳では無い。

お互いに邪魔し邪魔されて居る状態が、現実的な状態であるから、

現実的では無くしかもたつた一つのものが、一体何処に存在する事が出来るで有ろう。


第八頌

たとえ現実的なものに頼つて見ても、非現実的なものを作り出す事は出来ない。

現実的で無いものに頼らずに実際に作り出されたものが、正に現実である。

全てのものに関連して、何かを実行する人に依つて仕事が実行される。

其処に於ける悪徳さえも、正に具体的な事実であるから。


第九頌

現実的でない存在が目標では無いし、現実的な主体が主人公と云う訳でもない

やはり目標は正に、現実的な存在と現実的で無い存在とが一つに重なつた綜合的な存在である。

行為の実行や行為そのものが既に実行されて居り、

言葉で語られる以前から、正に諸々の理論が具わつて居る。


第十頌

現実的で無い存在が、同時に現実的な存在で有ると云う事は、絶対に有り得無い。

現実的であり同時に現実的で無い存在も、正に同じ様に絶対に有り得無い。

行為も行為の実行も、正に実行される。

言葉を使つて語られる以前から、正に諸々の理論が実在して居る。
 

第十一頌

現実的なものと現実的でないものとが一つに重なつた存在が、行為の主体と成る。

現実的なものも現実的でないものも両方とも、行為の実行では有り得無い。

行為としての具体的な事実そのものが、正に科学的な議論の対象で有り得る。

言葉を使つて議論をする以前から、正に様々の理論そのものが有る。


第十二頌

行為の実行も行為そのものも、明々白々として居る。

其れは明々白々としたもので有り、同時に行為の実行そのもので有る。

行為は実行される以外の方法で、具体化される方法が有り得無い。

その様な事実を実際に自分の眼で見る事自体が、非常な幸福を自分のものにする手段で有る。


第十三頌

此の様な方法で、自分自身が事実を感受する事に依り、

絶望から離れる事が、様々の行為である。

しかし行為をする事自体が、行為の結果自身を自分自身も受ける形に成る事が必然の成り行きであるから、

残存した状況を離れ、様々の状況を離れて、別個の発展に進んで行く可能性が有る。

2010年4月11日日曜日

第七章 綜合的な客観世界に関する検証(34頌)

第一頌

綜合的に創られた世界が誕生した際には、

其処に三つの特徴が固定されて居た。

其処に於いては、綜合的に創られた世界ではない世界が現れて居り、

どう云う訳か解らないが、綜合的に創られた特徴を示して居た。


第二頌

実際に現れたものその他は、三つの部分に切り離された状態のものであり、

充分に特徴の表示されたものでは無く、

綜合的に創られた世界に属し、全体が一箇所に投げ集められた様な様子に見受けられ、

一箇所に置かれたとか、同時に置かれたとかと云う風には、見受けられ無かつた。


第三頌

発生と継続と崩壊の中に置かれ、

そうで無ければ、綜合的な創造の特徴を示して居る。

一つの例として、安定して居ない状態と全く同じ様な状態が,実際に有る場合には、

その場合、綜合的な創造と異なる事実でさえ、実際に存在する事が不可能である。


第四頌

単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、

根本的な現象と呼ばれるものの中に見出されるものは、単に本人の思い過ごしでしか無い。

単純な現象が単純な現象を作り出し、其れが正に単純な現象である。

「根本的な」と云う言葉は,更にもう一度何かを生み出す働きをする。


第五頌

単純な現象と単純な現象、そして更に単純な現象、

その様な事実が、更に根本的な現象に含まれて居るとするならば、

単純な現象が、根本的な現象でさえ生み出す事の出来ないものを生み出す事となる。

併し現実そのものが、何かを生み出すと云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。


第六頌

現実は、具体的な事実が根本的な原則に従つて生まれたものであり、

その場合には、根本的なものが生まれて来る。

根本的な現実は、単純な事実だけに依つて生まれたものではなく、

それは正に演出されたものであると云うことが、どうして有り得よう。


第七頌

この世の中は、現に生み出されつつある具体的な事実であり、

われわれの希望に従つて具体化させる事の出来るこの世の中である。

しかしこの世の中を思い通りに作り出す事が出来ない間は、

この世の中が、単なる談話の快適さを離れて、本当のこの世の中を生み出す事が難しい。


第八頌

光りは、主観的なものと客観的なものとの結合である。

従つてその姿が現れて来る。

現れて来たものは、主観的なものと客観的なものとの結合であるから、

そこに於いては、主観的なものと客観的なものとの両方が、現れて来る可能性がある。


第九頌

光の中では、暗闇は実際に存在しない。

其処に於いては、光りが正に置かれて居る。

一体何が光りを見える様にさせて居るのであろう。

恐らく明るさが、暗闇を破壊して居るからであろう。


第十頌

一体何が、現れつつ有るものの役に立つて居るので有ろう。

光りに依つて、暗闇が破壊されて居るのである。

引続き現れつつ有るものが、暗闇ではないのであるから、

その場合には、光りが眼に見えるのである。


第十一頌

其の場合には正に、具体化出来ないものが、光りに依存して居るので有るから、

やはり破壊されて居るものは、暗闇である。

この場所に唯立つて居る事でさえも、全て時間の中に位置を占めて居る事である。

現実と呼ばれる暗闇が、将来と云えども停滞して居る。


第十二頌

光りは、主観性と客観性とを共に具えて居り、

その場合には、姿を現わす。

暗闇もやはり、主観性と客観性とを具えて居る。

しかし暗闇の場合は、休息の為に横になつて寝る事を隠す為に、その事を秘密にして居る。


第十三頌

何者に依つても作られて居ない世界が、此の世の中であり、

主観的な存在の生まれて来ると云う事が、どうして有り得よう。

其処に於いては、現れたものが生まれたのであり、生んだのである。

更に何かの生まれると云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。


第十四頌

現に今始めて作り出されつつ有るもので無ければ、今始めて作り出されて居るものでは無く、

現に今作り出されつつ有るものでは無いと云う事を否定する事が、どうして不可能であろう。

その様な具体的なものが、まだ名前の付けられて居ないものを作り出す。

進行しつつ有るものもあれば、行き着いたものもあり、まだ行き着いて居ないものもある。


第十五頌

始めつつ有ると云う事は、まだ終わつて居ない事を意味する。

その場合には、此の世の中はまだ前に進んでは居ない。

その場合、何故事態が前に進まないのであろう。

はつきりと解ることは、実際に起こつた事が、口先で喋る事だけだつたと云う事である。


第十六頌

夫々のものがはつきりと存在し、

個々の事物が安定した状態で、自己の存在を具体的に示して居る。

従つて事物の存続が,実際に継続して居り、

落ち着いた状態の存続が、実際に変わる事無しに続いて行く。


第十七頌

仮に有る筈の何かが欠けて居ると,

存在が多少綜合的に見えて来る。

一定の現実が発生すれば良いと云う願望が、多少可能性があると、

その様な存在が願望されて、実在となる。


第十八頌

作り出し続ける事が、生産である。

その場合、やはり作り出そうと願望する事が、この場所である。

具体的な事物を出現させたいと願うことが、何かを作り出す事であり、

現れて来るものは、やはり多数の中の誰かである。


第十九頌

其れとは異なり、出現を強制することが目標である。

其の場合、出現は不確定である。

其処では寧ろ、存在の世界に現れて来ない事が、実際の出来事であつて、

全てが出現を強制されて居る事が、実際の事実である。


第二十頌

正に実際の出来事に即応して、効果的な生産が有り、

現実的でないものは、決してそれに付着して居ない。

実際の出来事でも無く、実際の出来事では無い事も無い様な事実が、正に其れである。

やはり正に提示されたものが、それで有る。


第二十一頌

やはり手綱でしつかりと管理された様な状態の中に於ける、効果的な生産で無いならば、

存在の中に実際に在ると、表示されて居る様な事態には成らない。

その様な事態は、正に手綱でしつかりと管理された様な状態とは成つて居ないのであるから、

現実が存在として現れて来ては居ない。


第二十二頌

立ち止まつて居ない事では無いと云う事は,存在が自分の立場の上に、しつかりと立つて居る事を意味する。

立ち止まつて居る存在は、自分の意図として立ち止まつて居る訳では無い。

立ち止まりつつある状態が、立ち止まつて居る訳では無く、

何処にも定着して居ない状態が,事実上定着して居るだけの事である。


第二十三頌

しつかりと立つて居る事は,手綱で制御されて居る状態とは違う。

存在に内在した形で,現れて来て居る。

その様な状態のものは、やはり手綱で制御された状態とは違うのであるから、

現実が存在として、現れて来る訳では無い。


第二十四頌

老化と死亡とは、宇宙の原則に含まれている。

どの様な時点でも,全ての存在の中に含まれて居る。

様々の存在は,多数の中の何かとして、自分の立場を維持して居る。

其れ等のものは、老化とか死亡とかを持つては居ない。


第二十五頌

しつかりと立つて居る状態以外の状態としては、しつかりと立つて居る状態に属して居る場合もあれば、しつかりした状態に固定されて居る場合もある。

しかしその様な状態だけに、固定されて居る訳では決してない。

どの様な態度の出現が、出現の態度の中に含まれて居ようとも、

それは主観的な態度でも無ければ、客観的な態度でもない。


第二十六頌

制御する事の出来ないものを,制御する事は出来ないし、

未だ嘗て制御出来なかつたものを、制御する事も出来ない。

其処に於いては,制御され続けて居る事が事実であり、

まだ生まれ出て居ないものを,制御する事がどうして可能であろう。


第二十七頌

しつかりと立つて居る状態に帰属して居る事は、それだけ存在して居る事を意味する。

自己管理と云うものは、他人の眼には見えて来ないものである。

特にしつかりと立つて居ない状態で無ければ、存在の状態に含まれる。

しかし特に自己管理と呼ばれるものは、外から見えるものでは無い。


第二十八頌

特に具体的に安定した状態で無ければ。安定した状態とは云えない。

何故ならば、現実は正に自己管理をするものでは無いので有るから、

また別の捉え方として、安定して居る状態そのものが、安定であると云う捉え方も有る。

正に別の異つたものが、抑制される訳では決して無いので有るから。


第二十九頌

その様な場合には、正に一切のものが、宇宙秩序そのものである。

現象が改めて現れて来る訳では無い。

存在がたつた一つのもので有る等と云う事は、実際問題として存在しないのであるから、

存在して居ない等と云う事実は、決してこの世の中には現れて来ない。


第三十頌

正に実際の出来事に従つて、存在の範囲が決まるので有るから,

自己管理と呼ばれるものは、無いものが改めて出現して来る訳ではない。

存在はたつた一つのものとして有る訳では、決して無いので有るから、

存在して居ないものが、現れて来る等と云うことも、決して有り得ない。


第三十一頌

真実で無いと云う事は、正に存在して居る事が有り得
ないので有るから、

自己管理は新たに生まれて来るものでは無い。

最高のものは、二番目のものに所属して居る筈が無いのであるから、

その場合には、一切のものがばらばらに破壊されて終う事実が見受けられる


第三十二頌

主観的な行為基準に従う事が無ければ、自己管理の状態が実在する。

自己管理の状態は、他人の行為に依つて生まれるものでは無い。

どんな形で自己管理の状態が現れて来るかと云う問題は、出現そのものの中に含まれて居る。

自己の行為に依存するものでも無ければ、他人の行為に依存するものでも無い。


第三十三頌

何かが現れて来ると云う事は、それがしつかりと立つ事であり、様々の崩壊の可能性を含んで居ると云う事でもある。

綜合的なこの世界が不完全で有ると云う事は,絶対に有り得無い。

綜合的なこの世界の準備がまだ整つて居ないとするならば、

まだ準備の出来て居ないこの世界が、将来完成されると云うことが、どうして有り得よう。


第三十四頌

例えばあの世に於いては,超自然の力とか、夢を見る事とか、

天上世界の中にあると想像されて居るガンダルヴァ市とかは、その例であり、

此の世に於いては現象、此の世に於いては安定、

此の世に於いては、言葉で説明された破壊である。

2010年4月3日土曜日

第六章 刺激と感受との融合に関する検証(10頌)

第一頌

刺激に先立つて時間が先行して居る場合には、

興奮も刺激も隠された状態の中に有る。

具体的な事実がはつきりと、刺激として存在して居る場合には、

刺激も興奮として、現実に実在する事が可能である。


第二頌

刺激が興奮として、もう一度実在しないと云う事実が、

将来と云えども一体何処に有り得よう。

刺激の中にそして興奮の中に、実在して居る場合も実在して居ない場合も、

この場所に於けるこの具体的な事実は、やはり滑らかに前進して居る。


第三頌

この場合も強い力を持つものは,やはり現実の出現である。

強いものは決して、刺激と興奮との結合では無い。

しかし実際に期待する事の出来る事実は、刺激と興奮との一体化であるから、

その事に気が付かない事は、当事者の責任である。


第四頌

一緒に有る物が何時も一つの物であるとは限らない。

何故ならば一箇所に有る事が、何時も一つの物とは限らないから。

実際問題として一緒に置かれて居る物が、無関係な物であると云う事情は、

どの様な場所に於いても存在する事が、困難である。


第五頌

たつた一つの性質の中に、全ての存在が内在して居る場合には、

恐らく一人の追随者も無しに、たつた一つの現実が有るであろう。

分離された状態の中に、全ての存在が含まれて居る場合には、

恐らく一人の追随者も無しに、たつた一つの現実が有るであろう。


第六頌

全ての存在が分離された状態の中に含まれて居る。
 
その様な場合には、一体何が刺激と興奮との結合であろう。

完成された状態が、今や個々ばらばらの存在で有る場合には、

全べての存在が、あれでありこれであると云う事であろう。


第七頌

完成されたものが、個々ばらばらの存在であると、

その場合はやはり、刺激と興奮との両方の結合である。

しかし全ての存在はやはり何等かの目標を持つて居り、

自分の場合には、やはり存在と目標との両方に固定させている。


第八頌

個々ばらばらで有る事と、完成されて居る事とは,決して同じでは無い。

自分は有らゆる存在を、目標として定める。

あらゆる存在を達成させる事が、目標である。

個々の目標に対して、自分はそれが達成される事を熱望する。


第九頌

個々ばらばらの存在が、まだ確立されて居ない場合には、

全ての存在が、まだ確立されて居ない。

一体多数の中の何が、個々ばらばらの存在の中に有るのであろう。

私は全ての存在が,現実にそのような事態である事を期待している。


第十頌

この様にして、興奮した状態に依存し、刺激に包まれて、

完成された状態は、時には協調的であり、時には協調的でない。

刺激と同じ様に、一切のものが宇宙の秩序に従つて居る。

完成された状態は、時には協調的であり、時には協調的でない。

2010年4月1日木曜日

第五章 物質的な要素に関する検証(8頌) 

第一頌

全く拘束されて居ない空間は、決して認識する事が出来ない。

何故ならば、全く拘束されて居ない空間は、事前にこの特徴を完全に離れて居るから。

特徴が何も見当たらないと云う事は、何の特徴も持たず唯眼の前に有ると云う事であろう。

その場合には、やはり事前に特徴を離れて居るのである。


第二頌

何ものからも拘束されて居ない空間が、全く存在して居ない場合には、

存在と呼ばれる概念が、何処かに綜合的に認識される筈である。

しかし存在と呼ばれる概念は、空間の中にも存在の中にも実在して居ないのであるから、

前進すると云う事実は、一体何処に認識する事が出来るのであろう。


第三頌

何の特徴も持つて居ない様な状況の中にも帰属せず、特徴を持つて居るような状況の中にも帰属せず、

前進は、何等かの共通の特徴も持つて居るとか持つて居ないとかと云う問題とは、訳が違う。

同じ特徴を持つて居るとか、同じ特徴を持つて居ないとかと云う問題を離れて、

前進すると云う事以外には、何も含まれて居ない。


第四頌

何等の特徴も現れて来ない状況の場合には、

どの様な観察をする事も不可能である。

実際には結論の出ない論争に頼る事であり、

眼の前の事象に依存する事であり、両者は両立させる事が不可能である。


第五頌

従つて、何かを観察する事が不可能であり、

何かを感受する事自体が絶対に不可能である。

特徴が有る場合も特徴が無い場合も、相互の関係は全くばらばらであり、

存在と呼ばれるものは、認識される事が全く不可能である。


第六頌

存在して居ない場合も、存在して居る場合も、

何等かの意味に於ける不存在という考え方が、先行して居るものである。

存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論は、宇宙の秩序に背く理論で有り、

存在して居るとか、存在して居ないとかと云う議論に、一体何の意味が有るのであろう。


第七頌

従つて存在も無ければ、不存在も無い。

特徴も無ければ、間接的な表現もない。

無限の空間や無限の空間に準ずる、

五種類の物質があり、其れ等は個々ばらばらに夫々独立して居る。


第八頌

現実そのものが、正に眼の前に見えて居る。

実在を否定する事は,正に精神的に弱い人々の所行である。

様々の事物の存在が、見えて居る訳では無い。

物事を眺める事は静かな事であり、物事を縫い合わせる事である。