ドーゲン・サンガ ブログ

  西 嶋 愚 道

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2010年5月27日木曜日

第二十一章 共在と遍在との融合に関する検証(21頌)2(

第一頌

共在も遍在も両方共実在を意味して居る訳では無い。

共在は正に遍在に依存して居る。

しかし共在も遍在も、両方共実在を意味して居る訳では無い。

遍在は正に共在に依存して居る。


第二頌

名称だけが優先して事前に存在して居ると云う事態は、現実には有り得無い。

共在が遍在を作り出して居る訳では無い。

遍在は正に誕生で有り、やがて死滅を避ける事が出来ない。

遍在が誕生で無い事は、避けられ無い。


第三頌

正に共在に依存して居る事が、遍在で有る。

遍在と共在とが、同時に存在して居ると云う事が、将来と云えどもどうして有り得よう。

誕生でも無ければ死滅でも無いものが、正に眼の前の事実で有る。

何故ならば、現代に即したものとして、様々のものが眼の前に見えて居るから。


第四頌

どうして名称が将来に向かつて存在すると云う事が、有り得よう。

共在も遍在も実在では有り得無い。

一時的な存在も、多数のものの存在に依存して居る訳では無いので有るから、

どんな時点でも、認識の対象に成らないものは、認識出来ない。


第五頌

共在は正に遍在に依存して居るので有るから、

共在と遍在とが同時に存在すると云うことが、将来と云えどもどうして有り得よう。

誕生は死亡と決して同じでは無い。

何故ならば、誕生と死亡とは同時に存在して居ることが認識出来るので有るから。


第六頌

共在して居るものが、違つたものと違つたものとを活用して、矢張り製品を完成する事が有り得る。

遍在して居るものが、矢張り違つたものと違つたものとを使つて、両方を使いこなして居る。

具体的なものと具体的なものとだけを取り上げて、完成品を作り上げると云う事は、あまり見かけ無い。

一体如何して何もかも見る事が出来ないので有ろう。


第七頌

その処在地に関連して、共在の場合にはその処在地が完全に分からない。

共在の場合には、分からないと云う条件が完全に成立しない程、実在の問題が起こらない。

処在地の問題に関連して、遍在の場合には、所在地が何処に有るかと云う問題自身が、成立し無い。

遍在の場合には、処在地が何処かと云う問題さえ成立し無い。


第八頌

主体としての共在と主体としての遍在とは、実に良く似て居る。

しかし主体としての遍在の場合には存在と云う性格を認める事が出来ない。

客体としての共在と客体としての遍在とも、実に良く似て居る。

しかし客体としての遍在の場合にも、存在と云う性格を認める事は出来ない。


第九頌

共在と遍在とは実に良く似て居る。

しかし自律神経のバランスした状態の時にのみ現れるものでは、決して無い。

共在と遍在とは実に良く似て居る。

しかし自律神経のバランスして居ない状態の時にのみ現れるものでは、決して無い。


第十頌

共在と遍在とは実に良く似て居る。

矢張り同一の状態で無いと、現れて来ない。

共在と遍在とは実に良く似て居る。

矢張り違つて居ないと云う状態が無いと、現れて来ない。


第十一頌

共在は全く同じ形の存在として、眺める事が出来る。

遍在も全く同じ様な具体的な事実として、存在する事が可能で有る。

共在も全く同じ形の存在として、眺める事が出来る。

意識の喪失と遍在とは、事実上全く同じ様な実情で有る。


第十二頌

存在を回避し無ければ、存在が生まれる。

存在が存在して居ない状況を回避し無ければ、誕生は有り得無い。

存在して居ない状態から離れ無い限り、存在して居ない状態が,生まれて来る。

存在して居ないものが、存在を放棄した場合は、誕生が有り得無い。


第十三頌

主観的なものが、存在を生み出す訳では無い。

客観的なものが、何かを生み出すと云う事も、絶対に有り得無い。

主観的なものも客観的なものも同じ様に、何も生み出さない。

生み出すと云う行為自身が、何かを生み出すと云う事態が、一体何処に有り得よう。


第十四頌

存在は到着すべき方向に向かつて進んで居り、

永遠の性格を持つたものと、刹那的なものとの違いは、眼で見れば分かる。

現実は存在して居るので有るから、見れば分かるし、

眼の前に在る恒常的なものも恒常的で無いものも、両方共存在して居ると思われる。


第十五頌

存在は到着すべき方向に向かつて進んで居り、

切断する事も不可能で有るし、永遠である事も不可能である。

出現も消滅も中断される事の無い連続で有る。

何故ならば、結果も因果関係も、存在であり現実で有るから。


第十六頌

出現も消滅も中断される事の無い連続で有る。

結果も因果関係も存在で有り、現実で有る。そして、

消滅に付随する一回切りの出来事で有る。

因果関係は切り離されて居ると云う考え方は、拘わり過ぎて居る。


第十七頌

現実の存在の中に包含され、単独の存在として依存して居る。

非現実的な存在では無いと云う考え方は、正に拘わり過ぎて居る。

自律神経のバランスした時間の中では、正に瞬間的な状態で有る。

平穏な状態を離れて、存在が中断されずに流れ続けて行く。


第十八頌

最終段階に居る場合と留保の段階に居る場合とでは、実情が大いに違う。

初期の段階では、存在の場所が大いに関係する。

最終の段階に居る場合と、留保されて居ない場所に居る場合とでは、

最初の段階に居る場合には、場所の問題に大いに拘束される。


第十九頌  

抑止された状況の中に有る場合も、最終の段階の中に有る場合も、

其の段階に於いては、最優秀の状態が現れる。

抑止されて居る状態が、恐らくその一つで有ろうけれども、

生まれつつ有る状況の中では、以前にも以後にも有り得無いものが、存在する可能性が有る。


第二十頌

実際に抑止された状態で無い場合でも、

生まれつつ有る状態が、抑圧されて居る場合には、

その状況の為に、50%増の数量が死亡する可能性が有る処から、

その為に、一般的な集合体の状況に応じて、生まれて来る。


第二十一頌

この様に正に過去、現在、未来と云う三種類の時間の経過に従つて、

何等の拘束状態も無しに、出生と原因結果の関係との中断する事の無い継続が続く。

三種類の時間の恩恵を受けて、上記の様な様々の問題は実在して居ない。

この様な様々の現実が、どうして出生と因果関係との中断する事の無い継続で有り得るので有ろう。

2010年5月22日土曜日

第二十章 綜合的な把握に関する検証(24頌)

第一頌

理性が確乎とした様々の信念の中に内在して居る場合には、

其の場合、綜合的な把握が生まれて来る。

結果の実在して居る事が、正に綜合的な把握で有る。

綜合的な把握が生まれ出ると云う事態が、どうして有り得よう。


第二頌

理性が正しい信念の中に内在して居る場合には、

正に其の際に、綜合的な把握が生まれて居る。

結果の実在して居ない時が、正に綜合的な把握で有る。

綜合的な把握が何かを生み出すと云う事が、どうして有り得よう。


第三頌

理性が様々の真実の中に内在して居る場合には、

綜合的な把握が実在し,亦結果が実在して居る。

単に把握されたと云う事実は、決して綜合的な把握を意味するものでは無い。

綜合的な把握そのものが、何かを把握すると云う事も決して無い。


第四頌

理性は正に正しい真実の中に含まれて居る。

従つて若しも綜合的な把握が実在して居無ければ、結果も実在して居る筈が無い。

様々の理性は、恐らく様々の真実そのもので有り、

理性的で無く、様々の真実で無いものに付いても、恐らく実情は同様で有ろう。


第五頌

理性は因果関係に帰属して居り、事実上一種の贈り物として与えられて居る。

そしてその場合、理性はその機能を一時停止する。

その様な場合、矢張り贈り物は手控えられる対象と成り、

理性は矢張り霊魂と二重のものに成る。


第六頌

原因結果の問題に関連して,原因が割り当てられて居ない場合には、

正に理性が閉め出されて居る。

理性に依存して誕生が議論された場合は、その事に依つて、

原因結果の関係が、理論的で無い性質を基準として議論されたと云う推察が、浮かび上がつて来る。


第七頌

原因結果の関係が、綜合的な把握と完全に一致して居る場合が有る。

その場合にも矢張り見える事と聞こえる事とが、完全に一致して居るので有る。

同一時点に於ける発現は、世俗社会に執着して居る事の現れで有り、

その様な生殖力が正に何かを生み出す事の原動力と成つて居る。


第八頌

正に綜合的な把握が事前に有るので有り、

その場合には、結果の出現が最初に現れる事も有り得るので有る。

理性も真実も解放の対象と成る事が、事実上可能なので有り、

結果も不合理な事実も、存在する事が可能で有る。


第九頌

その場合多少手控えて見たらどうか。結果が理論に適つて居るかも知れない。

理論に従う事に依つて、融合が実際に起こる可能性が有るかも知れない。

誕生の状態に成る以前に、理論に従う事が有り得るし、

誕生に取り掛かる以前に,誕生がもう一度地上の生活に懸念を持つ事が、有るのかも知れない。


第十頌

結果の可能性が大きく拡大して生まれ変わる可能性が有り得る。

既に下降し始めて居ると云う可能性が、どうして有り得よう。

合理的な事態が、逆に固定化して仕舞うと云う事態が、どうして有り得よう。

因果関係のお陰で隠されて居たものが、生れ出て来たと云う可能性が有る。


第十一頌

幸運にも今まで隠されて居たものが、因果関係のお陰で、

どう云う訳か結果として生まれ出て来た可能性が有る。

眼に見えない状態と眼に見える状態とでは、全く正反対で有るとは云えないのかも知れないけれども、

原因結果の関係が正に結果を生み出したと云う事を主張する事は、決して間違いでは無い。


第十二頌

過去に包含されて居るだけでは無いと云う事は、過去に依存して居る事を意味する処から、

結果に包含されて居ると云う事は、同時に因果関係のご厄介に成つて居る事を意味して居る。

生まれて居ない事に依存して居ると云う事は、結局誕生に依存して居ない事を意味して居るから、

屡々の出会いが事実として実行された事が、常時認められる。


第十三頌

誕生する条件の中に含まれて居ないと云う事は、誕生の条件が整つて居ないと云う事を意味して居るから、

因果関係に含まれて居ると云う事は、矢張り原因に依存して居ると云う事を物語つて居る。

過去に依存する事も無く、誕生に依存する事も無く、

絶えず出合いと云う事実が、認識される。

 
第十四頌

生まれない条件に含まれて居ないと云う事は、

矢張り原因に依存して居ると云う事を物語つて居る。

生まれないと云う方法を回避して居る訳では無く、

屡々出会いの実行が行われたと云う事実は、常に認められる。


第十五頌

現実の会合が実行されて居ないと云う事は、理論に適つて居る。

どうして結果の現れると云う事が有り得よう。

実行を避けるか、或は会合を重ねるかは、何れも理論に適つて居る。

どうして結果の現れると云う事が有り得よう。


第十六頌

理性は因果関係に頼つて、自律神経のバランスした状態に達する事が有る。

そしてその際、結果の現れると云う事が、どうして有り得るであろう。

理性は因果関係に災いされて、自律神経のバランスして居ない状態に達する事が有る。

そしてその際、結果の現れると云う事が、どうして有り得るであろう。


第十七頌

結果は将来現れて来るものでは無く,自律神経のバランスとは関係が無い。

そして自律神経のバランスと関係が無いと云う事は、自律神経のバランスと関係の無い結果と呼ばれるものが、将来共抑圧の対象とは成らないと云う事で有る。

抑圧の対象と成らないものは、増大する可能性の無いもので有り、

自律神経のバランスと無関係な具体的な事実は将来に亘つて、存在の可能性を持ち続ける。


第十八頌

自律神経のバランスした状態は、一体どうすれば作り出す事が出来るので有ろう。

自律神経のバランスした状態は、一体どうすれば牢獄に入れて置く事が出来るので有ろう。

自律神経のバランスして居る状態は、正に自律神経自身が自分で自分自身を管理する力を持つて居る事を示して居る。

そして此の事実は、第三者に依る管理が不可能で有る事を示して居り、而も其の状態は許す事が出来ない。


第十九頌

理性は因果関係との関係では、正に単一性を持つて居る。

何故ならば因果関係と云うものは、常時現れて来るものでは無いので有るから。

しかし理性と呼ばれるものは、因果関係との関係では違う性格も同時に持つて居る。

何故ならば因果関係と云うものは、常時現れて来るものでは無いので有るから。


第二十頌

因果関係と理性とは、恐らく一つの性格に帰属して居るもので有ろう。

其の同じ性格とは、何かを生む力を持つて居る事と実際に何かを生み出して居る事とで有る。

恐らく因果関係と理性とは、別々に分かれえ居るもので有ろうけれども、

非常に似て居ると云う事は、其の原因が有るので有ろうけれども、其の原因が解らない。


第二十一頌

因果関係、主観的な存在、そして現実の存在、

理性は一体何を生み出すので有ろう。

因果関係、主観的な存在、そして現実的では無い存在、

理性は一体何を生み出すので有ろう。


第二十二頌

決して煽動者としての意見に巻き込まれて居る訳では無い。

合理主義的な性格が現れて居る。

合理主義的な性格がまだ作られて居るとは云えないけれども、

合理主義的な何かが存在し始めて居る。


第二十三頌

正しい真実は、決して様々の合理主義の中に含まれて居る訳では無い。

この場所に於けるこれは、霊魂的なものに属し、霊魂に依つて利用されて居る。

様々の綜合的な把握の生まれ出たものが、様々の現実で有り、

どうして新たに因果関係の生まれて来ると云う可能性が有り得よう。


第二十四頌

綜合的な把握に依つて作り出された世界は、結果では無い。

綜合的な把握に依つて作り出されて居ない世界も、結果では無い。

正しい真実としての綜合的な把握が実在して居る。

一体何処に結果が存在して居ないと断定する事が、出来るで有ろう。

2010年5月21日金曜日

第十九章 「時」に関する検証(6頌)

第一頌

現在の瞬間に於いて何かが既に到着して居ると云う事は、必ずしも何かが今到着した事を意味して居無い。

何故ならばその場合には、過去に於いて既に到着して居れば良いと云う期待の対象と成つて居るから。

現在の瞬間に於いて何かが既に到着して居ると云う事は、過去の時間に於いて既に何かが期待の対象と成つて居た事を意味して居る。

そしてその事は、過去の時間に於いて既に何かが未来に向つて存在して居た事を意味して居る。


第二頌

現在の瞬間に於いて何も到来して居ないと云う事は、

矢張りその場合も、この場所に於ける滞留は何も無かつたと云う意味で有る。

現在の瞬間に於いて何も滞留して居ないと云う事は、未だその場所に何も到達して居ないと云う事を否定して居る訳では無い。

その場合も恐らく何も期待の対象とは成つて居なかつたと云う意味で有ろう。


第三頌

この場合も矢張り期待の対象が実行されて居たので有るし、

過去が矢張り両方共認識されて居た訳では無い。

この場合も矢張り期待の対象が実行されて居たので有るし、

その為に「時」も矢張り認識されて居無かつた。


第四頌

此の場所に於いて残された此の事実を、矢張り両方共、

前進させる為の回転の原動力とし、

最高も最低も中間その他も、完全に同一の取り扱いで有る事等を条件として、

その一つの条件等の方法に頼よると同時に、それを仕事を特徴付ける方法とした。


第五頌

継続し無い事を止め、其れ等の方法が理解される事、

しつかりと立つて居り、時間に気が付かない事、

其れ等の把握された状態と、拘束されて居ない状態とが両方重なり,

如何しても時間に気ずく事が無くなつて仕舞う。


第六頌

時間の存在には、疑問の余地がない。そして。

時間の存在に依つて、何処かで何かが動く。

其れが何で有るかは皆目分から無いし、

時間に気の付く事が、どうして出来よう。

2010年5月20日木曜日

第十八章 霊魂に関する検証(12頌)

第一頌

霊魂が様々の集合体の一部として,存在して居る場合には、

霊魂が上昇したり、死滅したり、場所を占拠したりする事が、有る筈である。

しかし霊魂が様々の集合体とは別個の存在で有るとするならば、

霊魂には様々の集合体とは別の特徴が有る筈である。


第二頌

矢張り霊魂と一緒にその人自身も動く。

霊魂に取つて、一体何処に将来の存在が有り得よう。

全ての俗世間的な関係から自由であると云う事は、

静寂で有ると云う状態からも抜け出して、自分自身からも、自分自身以外からも、抜け出す事に成らざるを得ない。


第三頌

全ての俗世間的な関係からも自由で有り,利己主義からも自由で有ること、

其れ等は正に霊魂に取つて現実そのもので在り、認識の対象とは成らない。

利己的で無い事も、利己主義から自由で有る事も、

其れ等は眼に見える場合も有れば、眼に見えない場合も有る。


第四頌

「私の」と云う言葉とか、「私」と云う言葉とかは、使い古された言葉では有るけれども、

外側に向かつて自分自身そのものを提供するのと、正に同じ事で有り、

手控える事を自分自身の為に実行する事であり、

その様にして具体的な領地を気にし無くなる事が、具体的に領地を持つ事に繋がる。


第五頌

行為に関連して苦しむ事が、霊魂の為に住居を作り上げ、

行為と苦しみとが、絶えず入れ替わる。

様々の事物が拡張を遂げる事に依つて霊魂の拡大が進み、

どうにか自律神経のバランスした状態に頼つて、霊魂の自制が行われて居る。


第六頌

霊魂と云う言葉は、正に秘密の開示であり、

自分自身では無いと云う言葉が、正に自己告白をして居る。

多数の仏陀に依つて、自分自身で無い事が説かれ、自分自身で無い事も無い事が説かれ、

内容のはつきりしない何かが、霊魂の正に隠された内容である事が説かれた。


第七頌

正に返還されて来たものが、語られて来たもので有り、

正に帰つて来たものが、心を養うための牧場で有る。

上に上がつて来無かつたものは、妨害されて居ないので有るから、

自律神経のバランスが確保されて居る状態こそが、正に宇宙そのものの実情である。


第八頌  

全てのものが全部実在して居ると云う事は、矢張り現実では無い。

現実が全て実在して居ると云う思想は、矢張り全てが実在では無いと云う思想と同じ様に、誤りで有る。

全てが実在では無いと云う事でも無いし、全てが実在で有ると云う事でも無い。

この場所に於ける「これ」が実在で有ると云う教えが、釈尊のお説きになつた教えで有る。


第九頌

超越するものも無ければ、追随するものも無い状態は、平和な状態であり、

様々の発展に支えられて、自己満足の状態が展示されて居る。

変化や相違に煩われない状態、異なつた目的や対象を持たない事、

この場所に於けるこれが、現実の実状に帰属し、特徴を見せて居る。


第十頌

明々白々とした何かが、何かとして存在して居る。

何故かと云えば、別にそう大きなものが有る訳では無く、具体的なものが具体的なものとして存在して居るだけの事で有る。

強いて別のものが具体的なものとして有ると云う様な事実は、全く無い。従つて、

断ち切る事の出来ないものが、永遠なもので有ると云う様な事事実は、絶対に無い。


第十一頌

たつた一つの目的の為では無く、別の目的の為でも無い。

途切れ途切れのものでは無いけれども、永遠のものでも無い。

其れは具体的なものを意味し、真実を得た人々の呼び名で有り、

多数の仏陀に属する人々で有り、懲罰を与える人々で有る。


第十二頌

綜合的に仏陀と考えられて居た人々は、存在して居た事自体が、余りはつきりとはして居ない。

声聞乗と呼ばれた人々に関しては、矢張り摩滅の運命に曝された。

たつた一つの宇宙的な霊性に専心した縁覚乗と呼ばれる人々等、

夫々が混合状態を離れて、出発に専心して居る。

2010年5月12日水曜日

第十七章 行為と結果との融合に関する検証(33頌)

第一頌

自分自身を抑制する事は、極めて優れた素質で有り、

遠く離れた地域に迄恩恵を与える事が、正に其れで有る。

友達から与えられた現実が、宇宙の秩序と呼ばれる具体的な事実であり、

結果に含まれて居る果実は、将来に於けるこの世の中の実情で有る。


第二頌

現に見えて居る事が、正に感受された内容で有り、

行いとして語られたものは、遠方からの甘やかしで有る。

其れに含まれて居るものは多数の外見であり、

行為に関連した事柄が、公表される。


第三頌

其処に於いては、例の眼に見えるものが語られ、

行為そのものは、精神的な問題に帰属して居り、伝統的な法律に合致して居る。

その様な状況の中に於いては,其れは正に言葉に依る状況の描写であり、

具体的な事実が、集団または多数に属する事であり、言葉が原因であつたりする。


第四頌

談話が限り無く続けられて居る。その様な様子は、

正に情報が全く途切れた様な状態で有り、しかも情報が充分に知らされて居る様な外観が示されて居る。。

情報が全く閉ざされて居る様には見えるけれども,実際にはそうでは無く、

追憶が停止してしまつた様な状態が、実情である。


第五頌

肉体上の快楽が追随して来る処から快適であり、

不純で有ると同時に,現実らしい性格のもので有る。

はつきりと眼に見えるものであり、しかも七種類に分かれた宇宙の秩序とは、真実を選ぶ事、努力をする事、歓喜する事、余分なものを排除する事、断念する事、自律神経のバランスを保つ事、精神を集中する事である。

様々の行為を整えると云う事は、伝統的な法と結び付く事で有る。


第六頌

そして兼ねて約束した通り、非常な若さと決めた時間とを離れて、そして、

行為と呼ばれる具体的な事実を、生まれ付きの状態として、分相応の状態に広げる。

抑制、そして抑制、

其処に現実的な何かが,結果として生み出される。


第七頌

其れが新芽と呼ばれる贈り物で有り、生命の基で有る。

過去から続いて居る継承が、やつと追い着いて来る。

更に続く拡大が結果として現れ、種子を離れて動き出す。

現実は決して追い付くだけでは無い。


第八頌

種子を離れて正に其れから、連続的な継承が有る。

連続的な継承を離れて正に、果実から得られた成果が有る。

種子が有る以前に、果実が有るからこそ種子が有る。

切断されて居ないものが永遠なもので有るとは、決して云え無い。


第九頌

其の様な事態の現に継続して居る事が、現に現れて居る状態が中断する事無く続いて居る事を示して居り、

其の様な考え方の益々進行して行く事が、はつきりとして居る。

其の様に発展した状態は、結果として現れた実情として動いている。

現実は矢張り前に向つてばかり進むものでは無い。


第十頌

現に現れて居る実情を離れた場合、其れに依つて中断する事の無い継承が始まる。

そして中断する事の無い継承を離れた場合、結果から生まれたものだけが残る。

行為を実行する以前に、結果が其れなりの効果を發揮し、

完全に切られた内容は、絶対に永遠では有り得無い。


第十一頌

宇宙の秩序に帰属して居ると云う事は、真直ぐに真実を目指す事で有り、

様々の汚点の無い事で有り、様々の具体的な行いの方法で有り、十重禁戒で有る。

結果的には、完全な享楽で有り、一種の物差しで有り、

宇宙の秩序に帰属し、今後の生涯に関する問題で有り、現に此の場所に於ける問題で有る。


第十二頌

恩恵の増大する問題で有り、亦同時に偉大な問題で有る。

悪徳は屡足枷を掛け度く成る様な虚構では有るけれども、

探し求める行為は実情としては、決してその様なものでは無く、

その場次第のやり方で、活用される。


第十三頌

再度此の場所で、私は公言したい。

其の様な場所に於ける何等かの虚構は,馬が馬具を付けられる様なもので有る。

真実を得た沢山の人々に依つて、亦縁覚乗と呼ばれる人々に依つて、

そして声聞乗と呼ばれる人々に依つて、やはり名前を挙げて賞賛される。


第十四頌

鳥の翼の場合には,成果の有る限り飛ぶ事が続く。

其の様な方法は,行為の場合も全く同じで有る。

地水火風の基礎物質も、現実的なもので有り、

最初の製作に於ける未発達なものも、正に現実で有る。


第十五頌

停止する事は、遠くに送られる事とは違う。

製造する行為と拒否された訳では無いと云う事実とは、全く同じで有る。

従つて、果実の存続する間継続する事に依つて生産が続くし、

行為に関連した事柄に依存する事に依つて、結果が生まれる。


第十六頌

恐らく仕事が停止するとか、仕事が遠くに送られるとかと云う事に依つて、

矢張り様々の行為が同時進行すると云う様な事に依存して居る。

その場合、様々の悪徳も様々の要素に依存して居る処から、

其処に於いては、行為そのものを破壊する事に付いても、無慈悲な実行が行われる。


第十七頌

全べての探究は、芽生えの一部分である。

現実の分け前に帰属して居り、亦様々の行為に帰属して居る。

一つの物から他の物への推移に依存して居り、

何か一つのものの作り出される事が、正に現実で有る。


第十八頌

様々の行いと様々の行いとが、相互に見合つて居る。

宇宙の秩序の現に眼の前に見えて居るものが、正に現実である。

真実の道と世俗の習慣との二種類の方法に包容されるか、又はたつた一つの真実の原則に包容されるかして、

正に充分に発達した二つの基準の確立が、既に現実問題として定着して居る。


第十九頌

結果は経過させる事に依つて、回避する事が出来るが、其れも亦現実である。

自殺の行為を回避させる事は、矢張り事前に完全に回避させるべきである。

苦痛を起こさせ無い事が、正に永遠の鉄則である。

其の様な場合には、特殊の事情を考慮する事が、当然の義務である。


第二十頌

自律神経のバランスに関する状態は、交感神経と副交感神経との相互関係の失われると云う事が、絶対に有り得無いから、

社会生活に於ける浮き沈みも、永遠のものであると云う事は、決して有り得無い。

様々の行為も、成果の有る限り続けて行く事が鉄則で有り、

其の様な宇宙の原則も、やはり釈尊に依つて教えられた。


第二十一頌

一体どの様な理由から行為が実行され無いのであろうか。

彼処でも此処でも、あらゆる財産の欠乏して居る事が、その原因である。

正にその様な原因から、具体的な事実が作られて居ないので有る。

其の様な理由から、果実が実らないので有る。


第二十二頌

行為が自分自身の出生地に於ける仕来りである処から、従つて、

恐らく一切が変更不可能で有り、恐らく睡眠の為に横に成る事さえ、不可能なので有ろう。

何も作る事の出来ない事情が、行いそのものとして有るので有ろう。

何故ならば、何かを作ると云う作業は、終わりの無い作業で有つては成らないので有るから。


第二十三頌

結局作る事が出来ないのでは無かろうかと云う不安や、実行する事が不可能であると云う心配等が重さなつて、

恐らく行為が実行出来ない様な場合には、

継続すると云う約束を維持出来ない場合があり、

その場合には、悪徳の数を増加させる結果に成る。


第二十四頌

何かを実行すると云う事は、様々の邪魔に依つて妨害されると云う事である。

其れ等の邪魔の全てが、眠る為に横に成る事とは限らない。

正しい行いと不正行為との問題だけでは決して無い。

仕事を分割する問題が、何時も絡んで居る。


第二十五頌

具体的に料理が作られ、料理が実際にもう一度出来上がる。

矢張りもう一度、料理の仕上げが行われるので有り、

其の為に行為が秩序正しく置かれた状態に安定する。

従つて其の場合には,行為が自分自身の本性から起こる生まれ付きの性格を發揮する。


第二十六頌

行為は、激しい苦痛が自然を形作つて居る状態に即応して、この世の中を現わし、

其れ等の事実が、正に紛れも無い激しい苦痛である事を示して居る様に,見受けられるけれども、

実情から云えば、様々の現実がこの世の中の内容として、激しい苦痛であると云う事では決して無く、

恐らく行為そのものが、現実の事実としてその侭、真実であると主張する事が出来るかどうかと云う疑問であろう。


第二十七頌

行為、激しい苦痛、そして身体、

明々白々とした様々の真実、其れ等が綜合的に語られた様々の談話の内容で有る。

行為、激しい苦痛、そして自律神経のバランスと呼ばれる身心の均衡状態、

その様な場合、その身体の特徴に依存した有り方は、一体どんなもので有り、何処から来るので有ろう。


第二十八頌

勉強して居ない事が災いして、成長が未熟で有つたり、

何ものかに対する渇望を持たず、此の世の中に於ける融合のみを期待して居ると云う事が,正に現実で有る。

現実そのものが享楽する主体で有つて、現実そのものが何かを作り出す主体で有ると云う事は、決して無い。

現実以外のものが現実で有ると云う事は決して無く、現実は正に現実として実在する。


第二十九頌

確乎たる信念は、一斉に飛び出して来る様なものでは無く、

確乎たる信念で無いものも、一斉に現れて来るものでは決して無い。

その様な形で眼の前に実在して居るものが、行為である。

従つてその時以後に相違が実在するものでは、決してない。


第三十頌

行為はその後変化として実在するものでは、決して無い。

恐らく、行為から生まれたものが結果で有ると云う事実は、何処にも無い。

恐らくその場合、結果的に欲望を満足させた人は、結果の中に実在する。

欲望を満足させた人が、将来何処かに存在すると云う事が、どうして有り得よう。


第三十一頌

其の様な方法で、建築物を構築した人が、支配者で有り、

完全に計測して組み建てた事が、充分な意味での完成を示して居る。

建物を完全に計測して建てようとしたと云う事と、其れが完全に計測されて出来上がつたと云う事実とは、事態が同じでは無いので有るから、

現実は今回も矢張り、既に出来上がつたと云う事実が大切で有る。


第三十二頌

此の様にして構築されたものが、外見的な形態で有り、作成者で有る。

其れが行為であり、是が作品の成果で有る。

其の様なやり方で、製作されたものとは別のものが存在する。

其処には創作されたものと創作されたものとが、眼の前に現れて居る。


第三十三頌

様々の激しい苦しみも、様々の行為も、矢張り外見的な姿の現れで有り、

矢張り様々の行為を実行する人々で有り、矢張り様々の結果そのもので有る。

ガンダルヴァと呼ばれる架空の都市で有り、刑務所を必要とし無い都市で有り、

太陽の光りで有り、睡眠であり、其れ等と似た様な世界で有る。

2010年5月10日月曜日

第十六章 束縛と解放との融合に関する検証(10頌)

第一頌

完全に仕上げると云う事は,先ずいろいろと歩き廻る事であり、そして、

其れを止めない事が、歩き廻ると云う事の意味である。

色々と歩き廻り、途中で止めないと云う事である。

その様な現実の有り方が、正に全ての事実であり、規則正しく前進する事で有る。


第二頌

その様な人格的な実体が歩き廻るので有り、そして、

哲学的には感覚に関する五つの要素、即ち物質的な外形、感覚作用,認識、形成作用の集合体、意識と云う客観的な要素に依存して居る。

五種類のものが求められて居る概念の其れで有り、

漠然としたものが有る訳では無く,何かが未来に向つて歩き廻るので有る。


第三頌

自分自身の為に実行する行為が、自分自身の為に実行する行為と気付かずに、自分自身の為に実行する行為として実行され、

ぶらぶらと歩き廻る事が、何処までも広がる可能性が有る。

大きな力を大きな力として感じ取る事が出来ず、

何が現実であり、何の中を彷徨うのかが解らなく成る。


第四頌

上手に整える事が、自律神経のバランスを意味する訳では無い。

何が一体現れるので有ろう。

現実に包含される事だけが、自律神経のバランスでは無い。

何が一体現れるので有ろう。


第五頌

虐殺される訳では無いし、釈放される訳でも無い。

現れる事で有り、通過する事で有り、法律に従う事で有る。

従来と同じ様に、完成する事で有り、現実の事態そのもので有る。

虐殺される訳でも無ければ、釈放される訳でも無い。


第六頌

束縛と自分自身の為にする行為、

実際に自分自身の為にする行為は、破壊される事が無い。

実際には自分自身の為にする行為に該当して無い場合でも、破壊される場合は有る。

しかし実際に恒常性の有る事例に関連して、破壊されると云う事がどうして有り得よう。


第七頌

破壊する事に依つて、思いの侭に支配を可能にする。

其の場合には事前に、破壊を離れる可能性も有り得る。

具体的に残つた事実が残存して居ないと云われて居るけれども、

行きつつ有る場合もあれば、行き終わつた場合もあり、まだ行って居ない場合も有る。


第八頌

縛られた状態が緩和されると云う事は無い。それと同じ様に、

縛られて居ない状態が、緩められる事も決して無い。

恐らく存在する事実は、束縛された状態の中でも有り、解放された状態の中でも有る。

束縛と防衛とが一組に重なり、二個一組の状態と成つて居る。


第九頌

自律神経のバランスした状態が、安定した状態で有る。

自律神経のバランスした状態は自分にも、将来具わる事で有ろう。

想像出来る状態は束縛の中に有り、解放された状態の中にも有る。

自分自身の為に実行する行為は、認識として偉大で有る。


第十頌

自律神経のバランスした状態は,自分自身が努力して入つて行ける境涯では無い。

目標の無い流浪として、力ずくで取り除く必要の有るものでも無い。

あそこには何かが有り、此処には目標の無い流浪が有る。

自律神経のバランスした状態と取り替える事の出来るものは、何も有りはし無い。

2010年5月9日日曜日

第十五章 主観的な存在に関する検証(11頌)

第一頌

綜合的な存在は、主観的な存在には包含されて居ない。

抽象的な思索への没入は、明らかに様々の理性の働きである。

理性は明らかに,綜合的な存在である。

主観的な様々の存在は、人為的に作られた可能性が有る。


第二頌

主観的な存在は、人為的に作られたものであると云われて居る。

しかしもう一度、全く同じものの存在を期待する事が、どうして出来よう。

その様に人為的で無い事が、主観的な存在の特徴で有るから、

別の地域では全く無関心の対象と成る事が事実である。


第三頌

一体何処に、主観的な存在に含まれて居ない地域が有り得よう。

将来に於いては、客観的な存在と呼ばれるものの存在も、期待される。

主観的な存在は、客観的な存在に内包されて居る。

何故ならば、客観的な存在が、既に議論の対象となつて居るから。


第四頌

主観的な存在と客観的な存在との両方に関連して、

存在が何処かで、もう一度動く。

主観的な存在と客観的な存在との両方に於いて、実際に起こる。

何故ならば、存在が既に設定されて居るから。


第五頌

存在する世界の中で、まだ何も完成されて居ない場合には、

存在して居ないと云う事実さえ、まだ全く達成されて居ない。

存在する世界に帰属して居ると云う事は、存在して居ないと云う事とは別であるから、

未だ存在して居ないと云う事は、是から生まれると云う事を意味する。


第六頌

自分が存在して居るか、他人が存在して居るかと云う問題は、

単に存在して居るか、存在して居ないかだけの問題と同じである。

眼の良く見える人々と,眼の良く見えない人々に関連して、

釈尊は、現実の有り方を良く教育する事の出来る教育者であつた。


第七頌

カーテイヤーヤナは教訓的であり、

実際に実在して居るとか、実在して居ないとかと云う二つの議論に対しては、批判的であつた。

明確な否定が賞賛に値いする特徴を持つて居り、

存在するとか存在しないとかと云う問題に関しては、或る場合には賞賛の対象となり,或る場合には無評価の対象と成つた。


第八頌

若しも現在に於ける現実の有り方が、本来の自然の形式であるとするならば、

恐らく現在の実状も存在し無いで有ろうし、現実に今有るものとは別のものが有るで有ろう。

本来の実情とは違う別の状態が存在するで有ろう。

何故ならば実際には、何も現れて来ないので有るから。


第九頌

本来の実情からすれば、一体何が真実でないと云えるで有ろう。

恐らく普通の状態とは違つた状態が,存在して居る事で有ろう。

本来の実情からすれば、一体何が真実であると云えるで有ろう。

恐らく普通の状態とは違つた状態が,存在して居る事で有ろう。


第十頌

恐らく永遠の保持と云う事が実際には有るので有ろうし、

展示から切り離すと云う事も、実際には無いので有ろう。

その様な事情から、実在する場合と実在し無い場合と両方が有り、

鋭い切り口をまだ得て居ない場合も有れば、物事が一切良く見えて居る場合も有る。


第十一頌

主観的な考え方に依存して、例の容れ物と云う理解の仕方が実在する。

具体的な事実では無く、実在するものでも無いけれども、永遠に存在するものとして考え続けられて居る。

存在して居ないと考えられる以前から、既に現時点に於いて実在して居ない。

実在するかの様に語られる事は、架空の幻想で有る。

2010年5月8日土曜日

第十四章 融合に関する検証(8頌)

第一頌

眼に見える物と,眼で見る事と,眼で見る人と、

此れ等三つのものは、様々の色合いでは有るけれども、二つ宛の色合いと二つ宛の色合いとの組み合わせで有る。

全体に亘つて融合であると云う事では、決して無い。

一つのものともう一つのものとが、最終的には前に向つて同時に進んで居る。


第二頌

その様にして正に染色する行為があり、正に染色されたものが有る。

正に染色する事の喜びで有り、眺める事の喜びで有る。

三種類のものから成る残されたもの、即ち残されたものと心身に於ける苦しみと、

残された聖火の為の場所とが、共に残された憩いの場所で有る。


第三頌

他の何ものにも依存せず、他の何ものにも帰属して居ない状態が、融合である。

具体的なもので、性質の違うものは、全く見当ら無い。

其れは自分自身を検証させる事で有り、自分自身を差し出す事で有る。

融合は其れから以後は、どつち着かずの態度を取る事を止める。


第四頌

完全に自分自身に帰属して居るものも、決して他の人の性質と無関係では無い。

見る事その他の全ての感覚的な働きは、他の事物を感受する事が出来るけれども、感覚的な働き其のものを知る事は出来ない。

何かに帰属して居るとか、何かに依存して居るとかと云う事は、50%増の働きを可能にするけれども、

他人の力量そのものを發揮する事は、不可能で有る。


第五頌

違つたものと違つたものとは、はつきりと違つたものを作り出す。

違つて居ないものと違つて居るものとは、違つたものとして動く。

非常にはつきりして居るものと、其れに準ずるものとの間では、

具体的なものと違うものとの差は、あまりはつきりとは出て来ない。


第六頌

違つたものと違つたものとが、違つたもの同志の様に見える場合には、

正に違つたもの同志として、動く場合が有る。

具体的なものが別々のもので有れば、別々のものが別々のものらしく見える。

動く事が実在して居無ければ、其れから以後は何も実在して居ない。


第七頌

違つたものに依存し無ければ、違つた性質のものを知る事が出来ない。

違つたものでは無いものに依存した場合,何も認識する事が出来ない。

現実の場面に於いては、実在して居ないものに依存したり、また別の性質のものに依存したりして見ても、

別の性質のものや具体的なものは両方共、同じ様に特に実在して居ると考える必要がない。


第八頌

具体的なものに頼つたり、具体的なものに包含されたりする事が、融合では無い。

他のものに依存したり、他のものに包含されたりしない事は、他から或る種の拘束を受ける事である。

融合され続ける事が、融合された状態である。

しかし融合された状態は、決して認識の対象とは成らない。

2010年5月5日水曜日

第十三章 現実の行いに関する検証(8頌)

第一頌

具体的な事実が何の目標も持たず,盗賊の規則である場合には、

威厳が有ると云われる人々も、あまり物事を喋らない人々である。

一切のものに関連して、盗賊の規則が行き渡つて居り、

一切のものを一つに纏める事は、具体的な事実に依るのであり、具体的な事実とは不正の意味である。


第二頌

具体的な事実が不正で有り、盗賊の規則である場合には、

その際、その場所に有る何が一体奪われるので有ろう。

其れは此の場所に於いて語られた尊敬すべきものを活用し、

自律神経のバランスした状態に頼つて、周囲を照らす事である。


第三頌

様々の存在の中に帰属して居ると云う事は、特異性が無い事を示して居る。

其れ以外の方法が存在し無いと云う事は、唯展示するだけの方法しか持つて居ないと云う事で有り、

生まれ付きの性質で無いものを持つて居ないと云う事は、正に存在するものとして唯其処に有ると云うだけの事で有る。

様々の存在の中で、唯自律神経のバランスした状態だけが前進する。


第四頌

此の世の中以外の世界に存在して居るものは,一体どの様な世界に所属して居るので有ろう。

主観的な存在と呼ばれるものは、認識の対象と成らない。

此の世の中以外の世界に存在して居るものは,一体どの様な世界に所属して居るので有ろう。

或る場合には、主観的な存在が認識の対象と成つて居る。


第五頌

正に具体的な事実に帰属して居るものは、別の世界に帰属して居る存在では有り得無い。

況して別の世界に帰属して居る存在が,此の世の中に於ける他のものと混同を起こす様な事態は、絶対に起こり得無い。

その様な事情から、若い人は老齢化する事に屈辱を感じる。

従つて彼等は老齢化する状態を屈辱として感ずる。


第六頌

具体的な状況と他の世界に於ける存在とは、

牛乳とヨーグルトとが丁度同じ様に存在する事が出来るのと似て居る。

牛乳とは違う何かが有り得る。

従つてヨーグルトの場合でも、事後の存在が有つたとしても、決して不思議では無い。


第七頌

自律神経のバランスして居ない状態が、ほんの僅かでも存在するとするならば、

恐らく自律神経のバランスした状態も、やはりほんの僅かでも存在して居る筈で有る。

若しも自律神経のバランスして居ない状態が、全く実在して居ないとするならば、

自律神経のバランスして居る状態も、将来と云えども何処にも有り得無い。


第八頌

自律神経のバランスした状態とは、一切を直観的に捉える判断能力であり、

様々の発言内容も不安定なものでは無く、真実を得た人々のそれで有る。

その様に様々のものが、全て自律神経のバランスした状態に於ける見解で有るから、

何事も管理された状態では無しに、公表する事が出来る。

2010年5月2日日曜日

第十二章 苦しみに関する検証(10頌) 

第一頌 

自分自身がやつた行為も、他人がやつた行為も、

自分自身と他人との両方でやつた行為も,合理的なものでは無い。

たつた一つの苦しみと呼ばれるものだけが、獲得する為の目標とされて居る。

その様な具体的な事実が、実際に実行可能な仕事であり、焦げ付きの対象と成る事が無い。


第二頌

自分自身で準備を完了させた仕事が有る場合には、

自動的に発展した状態の無い事が、はつきりして居る。

対象としての集合体は眼の前に在るこれであり、主体としての集合体が様々の物と現象である。

何故ならば、綜合的な存在が眼の前に在る事は、明々白々として居るので有るから。


第三頌

其の場合、其処に於いても様々の状況が変わり、

縛つて置きたいと云う欲求に動かされて、その様な場合でもやはり、その措置が変わる。

他人の行為に依つて、苦しみが存在する可能性も有る。

多数の他の人々に依つて作られたものが、指示された様々の例で有る場合も有る。


第四頌

自分自身と云う人格の作り上げた行いが、苦しみで有る場合には、

その苦しみはやはり、無いのと同じで有る。

自分自身と云う人格も、やはり現実で有り、その様な多数の人々の中の一人で有る。

苦しみはやはり、自分自身の行いが作り出したもので有る。


第五頌

他人と呼ばれる人格の生み出したものも、苦しみを作り出す。

其の場合はそれに伴つて、事態が照らし出される。

他人に依つて作り出された様な性格の事実も、苦しみを作り出す。

しかし現実が苦しみに依つて作り上げられると云う様な事実は、何処にも有りはし無い。


第六頌

自分自身以外の人格に依つて何かが生まれる事は、苦しみで有る。

其の場合、一体誰が自分自身以外の人格で有ろう。

苦しみを持つて居ないと云う事が、其の場合、何かを作る場合の性質で有ろう。

他の人と一緒になつて、刺激し合わない事が、具体的な事実で有ろう。


第七頌

其の事に関連して、製作すると云う事の中には、成功し無いと云う考えは含まれて居ない。

他人が作る事の中に、自分の苦しみが含まれて居ると云う事が、どうして有り得よう。

其の問題は、何かを作る上に於いて、苦しみの問題とは無関係であるから。

其の問題も、其の問題に含まれて居る問題も、恐らく自分自身で作り出したもので有ろう。


第八頌

自分のやつた行為と苦しみとが、互いに均衡を保つて居ると云う様な事実は無い。

何故ならば、具体的な事実に即応して生まれた事実が,仕事の成果であると云う様な均衡の問題とは、関係が無いのであるから。

他人のやつた仕事は恐らく,正に自分のやつた仕事とは違うので有るから、

苦しみが,他人のやつた仕事であると云う様な事が、どうして有り得よう。


第九頌

恐らく他人のやつた仕事も,自分のやつた仕事も両方とも、同じ様に苦しみで有る。

何故ならば其の場合、仕事は一つ,一つ,個々ばらばらのものであるから。

他人がやらなかつた仕事も,自分がやらなかつた仕事も、両方とも、

苦しみで有ると云う様な不合理は、何処にも有り得無い。


第十頌

排他的に誰か一人の人の独占であると云う様な事情は,苦しみに関しては無いのであるから、

四種類の苦集滅道に対する認識も、認識の対象では無い。

外部に存在すると云う事も、正に存在すると云う点では相違が無いので有るから、

苦集滅道と云う四つの考え方に関する認識も、認識の対象と成るものとは限ら無い。