2010年5月21日金曜日

第十九章 「時」に関する検証(6頌)

第一頌

現在の瞬間に於いて何かが既に到着して居ると云う事は、必ずしも何かが今到着した事を意味して居無い。

何故ならばその場合には、過去に於いて既に到着して居れば良いと云う期待の対象と成つて居るから。

現在の瞬間に於いて何かが既に到着して居ると云う事は、過去の時間に於いて既に何かが期待の対象と成つて居た事を意味して居る。

そしてその事は、過去の時間に於いて既に何かが未来に向つて存在して居た事を意味して居る。


第二頌

現在の瞬間に於いて何も到来して居ないと云う事は、

矢張りその場合も、この場所に於ける滞留は何も無かつたと云う意味で有る。

現在の瞬間に於いて何も滞留して居ないと云う事は、未だその場所に何も到達して居ないと云う事を否定して居る訳では無い。

その場合も恐らく何も期待の対象とは成つて居なかつたと云う意味で有ろう。


第三頌

この場合も矢張り期待の対象が実行されて居たので有るし、

過去が矢張り両方共認識されて居た訳では無い。

この場合も矢張り期待の対象が実行されて居たので有るし、

その為に「時」も矢張り認識されて居無かつた。


第四頌

此の場所に於いて残された此の事実を、矢張り両方共、

前進させる為の回転の原動力とし、

最高も最低も中間その他も、完全に同一の取り扱いで有る事等を条件として、

その一つの条件等の方法に頼よると同時に、それを仕事を特徴付ける方法とした。


第五頌

継続し無い事を止め、其れ等の方法が理解される事、

しつかりと立つて居り、時間に気が付かない事、

其れ等の把握された状態と、拘束されて居ない状態とが両方重なり,

如何しても時間に気ずく事が無くなつて仕舞う。


第六頌

時間の存在には、疑問の余地がない。そして。

時間の存在に依つて、何処かで何かが動く。

其れが何で有るかは皆目分から無いし、

時間に気の付く事が、どうして出来よう。