2010年5月22日土曜日

第二十章 綜合的な把握に関する検証(24頌)

第一頌

理性が確乎とした様々の信念の中に内在して居る場合には、

其の場合、綜合的な把握が生まれて来る。

結果の実在して居る事が、正に綜合的な把握で有る。

綜合的な把握が生まれ出ると云う事態が、どうして有り得よう。


第二頌

理性が正しい信念の中に内在して居る場合には、

正に其の際に、綜合的な把握が生まれて居る。

結果の実在して居ない時が、正に綜合的な把握で有る。

綜合的な把握が何かを生み出すと云う事が、どうして有り得よう。


第三頌

理性が様々の真実の中に内在して居る場合には、

綜合的な把握が実在し,亦結果が実在して居る。

単に把握されたと云う事実は、決して綜合的な把握を意味するものでは無い。

綜合的な把握そのものが、何かを把握すると云う事も決して無い。


第四頌

理性は正に正しい真実の中に含まれて居る。

従つて若しも綜合的な把握が実在して居無ければ、結果も実在して居る筈が無い。

様々の理性は、恐らく様々の真実そのもので有り、

理性的で無く、様々の真実で無いものに付いても、恐らく実情は同様で有ろう。


第五頌

理性は因果関係に帰属して居り、事実上一種の贈り物として与えられて居る。

そしてその場合、理性はその機能を一時停止する。

その様な場合、矢張り贈り物は手控えられる対象と成り、

理性は矢張り霊魂と二重のものに成る。


第六頌

原因結果の問題に関連して,原因が割り当てられて居ない場合には、

正に理性が閉め出されて居る。

理性に依存して誕生が議論された場合は、その事に依つて、

原因結果の関係が、理論的で無い性質を基準として議論されたと云う推察が、浮かび上がつて来る。


第七頌

原因結果の関係が、綜合的な把握と完全に一致して居る場合が有る。

その場合にも矢張り見える事と聞こえる事とが、完全に一致して居るので有る。

同一時点に於ける発現は、世俗社会に執着して居る事の現れで有り、

その様な生殖力が正に何かを生み出す事の原動力と成つて居る。


第八頌

正に綜合的な把握が事前に有るので有り、

その場合には、結果の出現が最初に現れる事も有り得るので有る。

理性も真実も解放の対象と成る事が、事実上可能なので有り、

結果も不合理な事実も、存在する事が可能で有る。


第九頌

その場合多少手控えて見たらどうか。結果が理論に適つて居るかも知れない。

理論に従う事に依つて、融合が実際に起こる可能性が有るかも知れない。

誕生の状態に成る以前に、理論に従う事が有り得るし、

誕生に取り掛かる以前に,誕生がもう一度地上の生活に懸念を持つ事が、有るのかも知れない。


第十頌

結果の可能性が大きく拡大して生まれ変わる可能性が有り得る。

既に下降し始めて居ると云う可能性が、どうして有り得よう。

合理的な事態が、逆に固定化して仕舞うと云う事態が、どうして有り得よう。

因果関係のお陰で隠されて居たものが、生れ出て来たと云う可能性が有る。


第十一頌

幸運にも今まで隠されて居たものが、因果関係のお陰で、

どう云う訳か結果として生まれ出て来た可能性が有る。

眼に見えない状態と眼に見える状態とでは、全く正反対で有るとは云えないのかも知れないけれども、

原因結果の関係が正に結果を生み出したと云う事を主張する事は、決して間違いでは無い。


第十二頌

過去に包含されて居るだけでは無いと云う事は、過去に依存して居る事を意味する処から、

結果に包含されて居ると云う事は、同時に因果関係のご厄介に成つて居る事を意味して居る。

生まれて居ない事に依存して居ると云う事は、結局誕生に依存して居ない事を意味して居るから、

屡々の出会いが事実として実行された事が、常時認められる。


第十三頌

誕生する条件の中に含まれて居ないと云う事は、誕生の条件が整つて居ないと云う事を意味して居るから、

因果関係に含まれて居ると云う事は、矢張り原因に依存して居ると云う事を物語つて居る。

過去に依存する事も無く、誕生に依存する事も無く、

絶えず出合いと云う事実が、認識される。

 
第十四頌

生まれない条件に含まれて居ないと云う事は、

矢張り原因に依存して居ると云う事を物語つて居る。

生まれないと云う方法を回避して居る訳では無く、

屡々出会いの実行が行われたと云う事実は、常に認められる。


第十五頌

現実の会合が実行されて居ないと云う事は、理論に適つて居る。

どうして結果の現れると云う事が有り得よう。

実行を避けるか、或は会合を重ねるかは、何れも理論に適つて居る。

どうして結果の現れると云う事が有り得よう。


第十六頌

理性は因果関係に頼つて、自律神経のバランスした状態に達する事が有る。

そしてその際、結果の現れると云う事が、どうして有り得るであろう。

理性は因果関係に災いされて、自律神経のバランスして居ない状態に達する事が有る。

そしてその際、結果の現れると云う事が、どうして有り得るであろう。


第十七頌

結果は将来現れて来るものでは無く,自律神経のバランスとは関係が無い。

そして自律神経のバランスと関係が無いと云う事は、自律神経のバランスと関係の無い結果と呼ばれるものが、将来共抑圧の対象とは成らないと云う事で有る。

抑圧の対象と成らないものは、増大する可能性の無いもので有り、

自律神経のバランスと無関係な具体的な事実は将来に亘つて、存在の可能性を持ち続ける。


第十八頌

自律神経のバランスした状態は、一体どうすれば作り出す事が出来るので有ろう。

自律神経のバランスした状態は、一体どうすれば牢獄に入れて置く事が出来るので有ろう。

自律神経のバランスして居る状態は、正に自律神経自身が自分で自分自身を管理する力を持つて居る事を示して居る。

そして此の事実は、第三者に依る管理が不可能で有る事を示して居り、而も其の状態は許す事が出来ない。


第十九頌

理性は因果関係との関係では、正に単一性を持つて居る。

何故ならば因果関係と云うものは、常時現れて来るものでは無いので有るから。

しかし理性と呼ばれるものは、因果関係との関係では違う性格も同時に持つて居る。

何故ならば因果関係と云うものは、常時現れて来るものでは無いので有るから。


第二十頌

因果関係と理性とは、恐らく一つの性格に帰属して居るもので有ろう。

其の同じ性格とは、何かを生む力を持つて居る事と実際に何かを生み出して居る事とで有る。

恐らく因果関係と理性とは、別々に分かれえ居るもので有ろうけれども、

非常に似て居ると云う事は、其の原因が有るので有ろうけれども、其の原因が解らない。


第二十一頌

因果関係、主観的な存在、そして現実の存在、

理性は一体何を生み出すので有ろう。

因果関係、主観的な存在、そして現実的では無い存在、

理性は一体何を生み出すので有ろう。


第二十二頌

決して煽動者としての意見に巻き込まれて居る訳では無い。

合理主義的な性格が現れて居る。

合理主義的な性格がまだ作られて居るとは云えないけれども、

合理主義的な何かが存在し始めて居る。


第二十三頌

正しい真実は、決して様々の合理主義の中に含まれて居る訳では無い。

この場所に於けるこれは、霊魂的なものに属し、霊魂に依つて利用されて居る。

様々の綜合的な把握の生まれ出たものが、様々の現実で有り、

どうして新たに因果関係の生まれて来ると云う可能性が有り得よう。


第二十四頌

綜合的な把握に依つて作り出された世界は、結果では無い。

綜合的な把握に依つて作り出されて居ない世界も、結果では無い。

正しい真実としての綜合的な把握が実在して居る。

一体何処に結果が存在して居ないと断定する事が、出来るで有ろう。