2010年6月4日金曜日

第二十三章 錯覚に関する検証(25頌)

第一頌

欲望から生まれたものが、怒りで有る。

憎悪と錯誤との両方が、語られて居る。

良い前兆と悪い前兆とが、錯覚を作り出して居る。

何故ならば、正しい真実はたつた一つの場所に集中して、存在して居る筈のもので有るから。


第二頌

良い前兆と悪い前兆とが、無数の錯覚を作り出す。

正しい真実が正しい真実そのものとして、その綜合的な姿を、我々の眼の前に現に見せて居る。

其れ等は決して単に様々の主観的な存在を見せて居る訳では無い。

従つて激しい痛みそのものが、現実の事実で有ると云う様な事態は決して無い。


第三頌

霊魂が実在して居るのか、実在して居ないのかが、問題なのでは無い。

問題は、一体霊魂がどの様な形で実体化されたかと云う点に有る。

問題が実在か否かに掛かつて居ると云う事では無い。

様々の激しい苦しみが,達成された最終の目標で有る等と云う事が、どうして有り得よう。


第四頌

何か容れ物の様な働きをするものが、其の様なものとして多数存在して居る。

多数の激しい苦しみが、現実の見本として仕立て上げられて居ると云う事は、決して無い。

ああそうか、何も無いと云う言葉の意味は、本当に何も無い事を意味して居る。

激しい苦しみを多少とも認める立場と、其れを全く認めない立場とでは、立場が違う。


第五頌

様々の激しい苦しみは、自分自身の身体を眺めて居る様な場合と似て居る。

拷問に掛けられて居る状態は、五種類の集合体の様に痛くも痒ゆくも無い状態とは違う。

拷問に掛けられる事は、自分自身の身体を眺めて居る様な状態と似て居る。

様々の激しい苦しみの中に居ると云う事は、五種類の集合体の様に、決して痛くも痒ゆくも無い状態の中に居るのとは、訳が違う。


第六頌

主観的な存在としての物語りは、碓認の対象と成らない。

良い前兆と悪い前兆とは、矛盾して居る。

二つの中の一つが、激しい苦しみで有る事は、疑問の余地が無い。

良い前兆と悪い前兆とは、矛盾して居る。


第七頌

外見、音声、味覚、感触、香り、

そして宇宙、そして其れ等に伴う六種類の方法、

現実が色彩の中に現れたり、暗闇の中に隠されたりして居る。

混乱の中に含まれ、同時に絶えず入れ替わつて居る。


第八頌

外見、音声、味覚、感触、香り、

そして宇宙、しかも其れ等は各個人の占有物で有る。

刑務所を必要としないガンダルヴァと呼ばれる都市であり、

光であり、眠りであり、空虚なものと、非常に良く似て居る。


第九頌

悪い前兆と良い前兆とが特に同じ様に、

別々の結果に依存して、現れると云う事態がどうして有り得るので有ろう。

悪巧みの上手な人間の処で実行が可能な為に、

水に映つた太陽の円形が、矢張り似通つた姿として使われたので有ろう。


第十頌

注意が向けられて居ない様な前兆は、此の世の中には有り得無い。

私は寧ろ悪い前兆を指摘したい。

明々白々として居るものは、良い前兆である。

従つて良い前兆は,決して姿を態々現わして来ない。


第十一頌

注意を向けられて居ない悪い前兆は、実際には有り得無い。

何故ならば、良い前兆は例外無しに指摘されて居るから。

其の様な事実が、明々白々とした悪い前兆に関する事実で有る。

従つて悪い前兆は決して改めて気付かれる事が無い。


第十二頌

その場に何も無かつたり、良い前兆しか無かつたりする場合には、

何処で色付けをする機会が有るので有ろう。

悪い前兆の中で有つたり、何も現存して居ない場合には、

何処に憎しみの存在する可能性が有ろう。


第十三頌

永遠のものでは無いと云う情景と生得のもので有ると云う事実とは、本来同じ内容で有る。

従つてその場合、何かを確保し続けると云う事は,絶えず方向転換を繰り返す事でも
有る。

永遠で無い事の否定は、良い前兆の中に見受けられる。

確保する事は転換する事であると云う事実が、一体何処に有り得よう。


第十四頌

永遠で無い状況の中に有る事と、生得の性質で有る事とは、同じ状況で有る。

その場合、何かを獲得すると云う事は、一種の転換である。

永遠では無いと呼ばれる事は、正に何かを確保して居る事を意味して居る。

良い前兆の中に在ると云う事が、どうして一種の転換で無いと云う事が出来よう。


第十五頌

一体誰に依つて其の確保が行われるので有ろう。

正に其の確保自身が、確保を実行するのである。

平静で有る事自身が全てで有り、

従つて確保と云う事実は,認識の対象に成らない。


第十六頌

まだ何も存在して居ないか、既に確保されて居るかのどちらかで有るから、

実体が何も無いか、しつかりと結合が行われて居るかのどちらかで有り、

何処かを自由に飛び廻つて居るか、

或は何処かで自由に飛ぶ事も出来ずに居るのかも知れない。


第十七頌

転換した状態の中に有るとは、到底考えられ無いから、

様々の自由自在に飛び回る状態が、至る所に綜合的に存在する事で有ろう。

転換し無い状態の中に有るとも、到底考えられ無いから、

様々の自由自在に飛び回る状態が、至る所に綜合的に存在する事で有ろう。


第十八頌

特別に高い数値や思想の中に、含まれて居る訳では無いけれども、

様々の高い数値が、綜合的に示されて居る。

自分自身に依る反省がどの程度のものかは、はつきりし無いけれども、

様々の高い数値が、綜合的に示されて居る。


第十九頌

未完成な様々の商品を、名前で呼ぶ事がどうして出来よう。

様々の入れ替えが、将来多数存在する事で有ろう。

様々の入れ替えが行われ、また製造が手控えられた場合、

多数の入れ替えの結果は、一体どう云う事に成るので有ろう。


第二十頌

主観的なものが、何等かの存在を生み出すと云う事は有り得無い。

客観的なものが、何かを生み出すと云う事も、決して有り得ない。

主観的なものも客観的なものも、其の様な事は無い。

多数の入れ替えの結果は、一体どう云う事に成るので有ろう。


第二十一頌

霊魂は矢張り輝きで有り、生得的なもので有る。

そして其の様な場合には、正に快適な状態が認識される。

霊魂は矢張り輝きで有り、生得的なもので有る。

その様な快適な状態は、激しく入れ替わるものでは、決して有り得ない。


第二十二頌

霊魂で無いものも、やはり不純であつたり生得のものであつたりする。

そして其の様な場合にも、快適さを味わう事は出来る。

霊魂では無い事も無い様なものの場合でも、やはり不純な場合もあれば、生得の場合も有る。

しかしその様な場合でも、激しい苦しみが認識の対象と成ることは、絶対に無い。


第二十三頌

この様にして、無知が停止される。

反対方向に転換される事が、妨害される。

無知に依存し、抑制に依存する事に依り、

完成その他が、早めに推進される。


第二十四頌

その場合、現実が主観的な存在に助けられる事に依り、

激しい苦しみが多少小さなものに変わり、その容れ物も多少小さなものに変わる。

どう云う訳か名称が刺激されて拡大し、

様々の主観的な存在が、何かに依つて力付けられる。


第二十五頌

その場合には、今まで無かつたものが主観的な存在を頼りにするように成り、

激しい苦しみが多少小さなものに変わり、その容れ物も多少小さなものに変わる。

どう云う訳か名称が刺激されて拡大し、

何かが、実際には存在して居ない様々のものを、拡大させる。