2010年6月11日金曜日

第二十四章 崇高な真実に関する検証(40頌)

第一頌

バランスした自律神経が、此の世の中の全てに満ち溢れて居る場合には、

この世の中に於ける新たな実在の出現も有り得無いし、其の死滅も有り得無い。

四種類の崇高な真実に関しても、

其れ等の不存在は、議論の対象と成らない。


第二頌

知識と断念と、

其れ等の原因を直接実際に自分の眼で見る事と、

四種類の崇高な真実、

此れ等のものが存在して居ないと主張する事は、自分自身の考え方に固執し過ぎて居る。


第三頌

其の様な事実が存在して居ないと云う事態は、認識する事が出来ない。

そして此の様な事実は、四種類の崇高な結果に関しても同様で有る。

結果と呼ばれるものの存続が無ければ、結果と呼ばれるものの確立は有り得無い。

そして結果に関する四種類の段階が実在して居無ければ、四種類の段階に於ける結果も実在する事が有り得無い。


第四頌

仏教教団が実在して居なければ、其れに伴う事実も実在して居る筈が無い。

其れ等の事実とは、八種類の人々、即ち教団の人々,役職者、事務職員、召使い、従者等々で有り、

四種類の真実が存在して居ないと云う考え方を離れた場合、

現実の宇宙は絶対に、単なる認識の対象では無く成る。


第五頌

釈尊は宇宙の中にも実在して居られ無いし、仏教教団の中にも実在して居られ無い。

釈尊は将来一体何処に居られるので有ろう。

佛法僧の三宝と同じ様に、釈尊は正に宝玉としての贈り物で有る。

釈尊の説法は、聴衆を批判して聴衆を反省させる。


第六頌

様々の自律神経のバランスは、結果であり、真の実在で有る。

宇宙の秩序に背いて居ようと宇宙の秩序に従つて居ようと実体には変わりが無い。

全ての事に関連して、仕事が正に巧く進んで行く。

日常生活の中で起きる談話に対しても、やはり遠慮なく攻撃して反省させる。


第七頌

其処では談話も自律神経のバランスした状態の中で行われるが、

貴方も其の原因に気付く機会が無い。

自律神経をバランスさせた状態は、自律神経をバランスさせる事そのものが目的で有り、

拡大は正に目的物を叩いて、分散させる事が目標と成る。


第八頌

二つの真実、即ち真実と現実との中で、走る状態を充分に楽しむ事は、

真実を得られた多くの方々の、宇宙の中に於ける教えで有る。

世界の中に於ける正しい案内は、正に真実そのもので有り、

其れが真実で有り、同時に最高の真実で有る。


第九頌

其れ等の呼吸作用に依存して、子供の誕生が有る訳では無い。

誕生の構成要素は、真実と現実とに従い、この二つのものに従つて居る。

其れ等のものは現実の状態で有り,生まれるものでは無い。

臍、声、及び性格の深さが尊敬されて居るけれども、其れ等に付いて釈尊は寧ろ否定的であつた。


第十頌

何か仕事をする事に関して希望が持て無い場合には、

より高い真実の追求を、割り与えられる事が無い。

より高い真実に対しては接近する事が、不可能で有り、

自律神経のバランスに到達する事が、困難である。


第十一頌

実体は間違つたものの見方の完全に壊滅させられた状態であり、

自律神経のバランスした状態は、単純素朴なものの考えをする人々の状態を意味する。

其れは地面を這う蛇の様な気味の悪い捕獲物を意味する事でも有り、

学問的な知識を意味すると同時に、難解な完成でも有る。


第十二頌

是から以後は、唯保持する事だけが専ら目標と成り、

目標とされて居るものが、熱心に展示させられる。

宇宙自身が着物を着せられた様な状態で宇宙に帰属し、

気乗り薄な様々の人々に依つては、想像されたり発見されたりする事が難しい。


第十三頌

自律神経のバランスした状態に依存して、

其れを再度様々の存在に作り変える。

有罪判決に非常に拘わる態度は、我々の態度では無いけれども、

自律神経のバランスした状態の中に於ける現実は、現れて来ない。


第十四頌

全てのものは、正に具体的な事物の中に含まれて居る。

自律神経のバランスした状態は、その様な事物に依つて縛られて居る。

一切の事物がその様な具体的な事物の中に縛られて居る訳では無い。

自律神経のバランスした状態が、その様な状況の中に縛り付けられて居る訳では無い。


第十五頌

現実の君が様々の悪徳を作り、主体,客体の君自身を作つて居る。

様々の事物に依存して,全ての側面に於いて防御されて居る。

馬の上に正に乗つて居りながら、地上等の上に坐つて、

犬と同じ様に忘れつぽい状態で、坐つて居る事で有る。


第十六頌

主観的な存在から離れた時に、様々の存在が眼の前に有る。

貴方は現実の存在を見る事が出来る。

原因又は理由の欠けて居る状態から、はつきりと離れた状態が、様々の存在で有るから、

貴方自身は、実際に実在して居るものを手掛かりとして、実在を見て居る。


第十七頌

実行されたものも、その原因も、全く同じもので有る。

実際に行為をする人であり、実行する事で有り、其の手段で有り、行為そのもので有る。

出現で有ると同時に停止であり、

結果で有ると同時に。その結果を追い返す事で有る。


第十八頌

行動的な人々が、明々白々とした状態で綜合的に現れた結果で有り、

様々の自律神経のバランスした状態が、様々の具体的な事物を現に表明しつつ有る。

其の様な情報が受け取られ、

流れに逆らつて受領され、中道的な立場と全く一体の状態を作り上げて居る。


第十九頌

偶然な出来事の意味が、全く理解されて居ない場合には、

宇宙秩序の認識されると云う事が、全く有り得無い。

従つて其の様な事情から、自律神経がバランスして居ない状態で有る為に、

宇宙の認識されると云う事も、全く有り得無い。


第二十頌

其の様な場合、自律神経のバランスして居ない状態が、この世の中の全てで有るから、

此の世の中の出現も実在し得無いし、此の世の中の死滅も有り得無い。

四種類のものに帰属して居る対象が、崇高な真実で有り、

其れ等のものが存在して居ないと云う判断は、自分自身の考え方に拘わり過ぎて居る。


第二十一頌

偶然の出来事が全く信頼されて居ない場合には、

将来と云えども、何処に激しい苦しみが有り得よう。

起こり勝ちな事であり、良く話題に成る事で有り、激しい苦しみでも有る処から、

其の様な主観的な存在に属する事実は、認識の対象と成らない。


第二十二頌

主観的な存在とは、頭の中で考えられた様々の認識作用の綜合である。

其れが再度集結されると云う事が、どうして 有り得よう。

従つて再度集結されると云う事実が、実在すると云う事は有り得無い。

自律神経のバランスした状態が、追い払われるので有る。


第二十三頌

自己管理の能力は、主観的な能力に依存して居る訳では無い。

其れが現に実在して居る状況は、激しい苦しみに含まれて居る処から、認識する事が出来るからで有る。

主観的な存在が、様々の矛盾を作り出す。

そして自己管理された状態が、様々の矛盾を撃退する。


第二十四頌

自分自身の自由な意思に依る存在の中に、釈尊の正しい教えに包まれて存在が有る。

存在の原因と呼ばれるものは、眼に見えて現れて来るものでは無い。

幸いな事には、釈尊に依つて示された正しい教えが、存在して居る処から、

主観的なものでは無いものが、事実に即して認識出来る。


第二十五頌

其の場合、激しい苦しみは集合したもので有つて、

自律神経のバランスした状態は、認識の対象には全く成らない。

釈尊の説かれた真実の探究は、激しい苦しみを抹殺する事に依つて、離れる事で有つた。

どの様にしてそれを達成する事が、出来た事で有ろう。


第二十六頌
 
主観的な存在に依存して、不完全な知識に頼る場合、

その際、再度どの様な事態の中に包まれる事で有ろう。

完全な知識は全く期待する事が出来ず、

主観的な存在が固定された状態で、居座つて居る。


第二十七頌

直観的な行為感覚に対して、放棄的な態度を取つて居る場合には、

存在の根拠は、正に具体的な事物そのもので有る。

知識に類するものに関しては、馬に首木を付けるのと同じ様な真似はしない。

四種類の基準に関しては、正に結果に関しても、同様に適用される。


第二十八頌

主観的な存在に依存した場合、確保されて居ないものが有る。

其れは結果と呼ばれるもので有る。其の結果と呼ばれるものは、一体どう云うもので有ろうか。

具体的に学習が可能なものとしては、恐らく、

主観的な存在を自分らしいやり方で、押さえ付けて置く事で有ろう。


第二十九頌

結果が存在し無い場合には、結果の安定も有り得無い。

預流果、一来果、不還果、阿羅漢果と呼ばれる四段階の過程に於ける名称も有り得無いし、

仏教教団も実在せず、其れに伴う実体も実在せず、

八種類の男性に於ける人格も、人格的な実体も実在しない。


第三十頌

様々の真実に対して探究の旅を続ける事により、真実が存在し無いと云う考え方を離れるので無ければ、

現実の宇宙を認識する事は、絶対に有り得無い。

宇宙の中に実在せず、仏教教団の中にも実在しないとするならば、

釈尊が、将来と云えども存在すると云う事が、どうして有り得よう。


第三十一頌

真実を確認する事が、極めて難しい場合には、

釈尊は君に帰属して居る。

釈尊を確認する事が、極めて難しい場合には、

真実は君に帰属して居る。


第三十二頌

其の様な人格は、釈尊とは異なつた人格で有り、主観的な存在に依存して居り、

現実の会得は、正に意図的に占領されて居る事で有る。

真実を得たと云う事は、単に訓練を受けたと云うだけの意味では無い。

其れ等の人々は、既に真実に接近して居ると云う意味で有る。


第三十三頌

其れは宇宙の秩序で有るとか、宇宙の秩序では無いとかと云う問題とは、全く関係が無い。

其れと同時に、其れは将来作られると云うものでも、決して無い。

何か自律神経のバランスとは無関係なものが、作られたもので有る。

何故ならば、主観的な存在が作られたと云う事でも無いので有るから。


第三十四頌

宇宙の秩序で有るとか、宇宙の秩序では無いとかと云う問題と関係して居る訳では無い。

何故ならば、結果は君自身だけに依つて気付かれたものでは無いから。

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、単なる目印だけの問題でしか無い。

結果は単に君だけが認識出来ないと云う問題では無い。


第三十五頌

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、単なる目印だけの問題でしか無い。

其の場合人々は屡、結果と云うものに気が付く。

宇宙の秩序で有るか、宇宙の秩序では無いかの問題は、一種の外装の問題で有る。

自律神経のバランスして居ない状態に於ける様々のものが、どうして結果と呼べるで有ろう。


第三十六頌

全ての事に関連して、仕事を協力して実行する事は,

日常生活に関連した問題を防護する事である。

進行しつつ有る実体は、明々白々とした真実で有り、眼の前に現れた現象で有る。

自律神経のバランスした状態として、防護されて居る。


第三十七頌

実行された状態が、ほんの僅かと云えども存在し無い場合には、

全く何も着手されて居ない状態が、何かを実行した実績として有り得る。

何かを作ると云う事は、恐らく下僕として行動する事で有り、

自律神経がバランスした状態に有ると云う事は、自分自身を防護すると云う事で有ろう。


第三十八頌

まだ生まれて居ない状態は、誰からもまだ支配されて居ない状態で有る。

正に最高の地位を保つ可能性を含んで居る。

様々の色彩を保持する可能性を正に持つて居り、

主観的な存在の中に解放された状態で有り、自由に動く可能性を確保して居る。


第三十九頌

まだ到着して居ない状態では有るけれども、到着範囲に達して居る。

正に激しい苦しみの境界線内に於ける行いで有り、

全てが宇宙の秩序の中に於ける激しい苦しみで有る。

其処に於いては、宇宙秩序のバランスして居ない情景は、見受けられ無い。


第四十頌

其処に有るものは、明々白々とした起源の現象で有り、

此の世の中を見る事で有り、現実を見る事で有る。

激しい苦しみも,正に綜合的に現れて来た集合体そのもので有り、

自己管理も探究も正に一つのもので有る。